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「天才」

高等部入学式から数日、土曜日。

 授業終わりの教室に、高く昇った太陽が光を差し込んだ。ほとんどの人は帰った後で、隅の机では白菊が静かに咲いている。一本ずつ、白い花瓶に生けられて。入学式の日にはそこも席だった、などと告げたところで、初めて見る人は首をかしげるだけだろう。そのくらいには調和してしまっていた。

 

 とはいえ、最初からあの席に飾られていたわけではないけれど。


 あの花は入学式の翌日から、天花の机に置かれるようになったものだ。毎日ひとつずつ。それを天花が、入学式の日にお払い箱となった席へ移動させている。ご丁寧なことに、茎の切り口を斜めに切りなおしてから。


 それだけじゃない。高嶺天花の周りが不穏になっていたのは。

 盗まれる重要そうな封筒。

 机に書かれた罵詈雑言。

 机の中に仕込まれた画びょう。目の当たりにして、天花は。

 変わらず微笑むだけだった。

 封筒の中身は要らない紙にすり替え済み。中の書類は別の封筒に入れて胸ポケットに。

 机の落書きを見ても、表情筋ひとつ動かさない。悪口の上にノートを広げて授業を普通に受ける。

 そして机の中に物は入れない。荷物はすべて鞄の中へ。そして鞄は鍵のかかるロッカーの中へ。だから掃除の時間に机を運んだ拍子に中身が零れて、そこでようやく罠を知る。


 天花が瀬戸に、分厚い茶封筒とペラペラのクリアファイルを手渡した。どちらも印刷用紙が余裕で入りそうな大きさだ。


「茶封筒は説明資料。三部。クリアファイルは委任状。司会進行は任せた」

 あの鈴を転がすような声で内訳を言って、そのまま自分の席へと帰っていく。

 クリアファイルごしに委任状を確認していた瀬戸が、驚いたように顔を上げた。


「え、天さま来ないのか? そりゃ、俺も同席するって話だったけどさ」

「何よ、今さら」

 わきからツッコんだのはつぐみだ。

「天花が言ってたでしょ、交渉は瀬戸の方が得意って。天花も席をゆずるほどの手腕、見せてもらうんだから」

 強気な言葉は、けれど震えを隠しきれてない。呼吸はいつもより浅く、見ているだけで緊張しているのが分かる。


「分かったよ。……けど、本当に参加しないなんてな。今日の作戦会議、協力者との顔合わせでもあるんだろ? しかも、その協力者って天さまの。いいのかよ、言い出しっぺが出席しなくて」

「うん。姉。もう概要も、今日は瀬戸に一任することも伝えた。だから私が行く必要はない」


 手際よく、天花は帰り支度を進めていく。といっても早いものだ。ロッカーから取ってきた数冊のノートと筆記用具、それに配られたプリントをバッグに流し込むだけなのだから。

 机の上には分厚い日誌。一昨日、昨日、そして今日。まだほんの数日だが、天花の筆跡がつづられているのは分かる。


 そんな天花を、瀬戸を、つぐみを。優人はただ眺めているだけだ。

 ――――優人が関わる面局などないのだから。


 やれやれ、と瀬戸が肩をすくめる。

「会場は空花の分校だっけか。行きはちょうど電車の少ない時間なんだよな。帰りは帰りで遅くなるし。最近、物騒だってのに」

 そのぼやきに、先に反応したのはつぐみだった。

「猟犬二人が行方不明、続報はないって話ね。それも東京校近くで。あなたは私が送るから大丈夫よ。だから」

 金色の目が、そこで優人をとらえた。


「私はいいから、今日は天花を送ってあげて」

「言われなくても。それより、天花も何か言いかけたでしょ」


 視線を向ける優人に、天花は小さくうなずいて瀬戸を見た。


「13:10発のがある。15:42着。乗り換えなし。領収書、学長に出して。交渉したから経費で落ちる」

 天花が言うならそうなのだろう。少なくとも電車の時間については。瀬戸も同じことを思ったのだろう、半眼の赤瞳を天花に向ける。

「ダイヤの暗唱はさすがとして……。あのサイコパス長に経費をねじ込むとか、天さまも大概やべー交渉人なのな。俺いらねーだろ」


 サイコパス長。

 優人の頭によぎるのは、隣に守人がいた夏の日のこと。


 ――――言い得て妙とはこのことか。


 納得してしまう優人とは対照的に、天花の微笑みが人形のようなそれになる。ただし、目に有無を言わせぬ力を入れて。

「私は忙しい」


 そのまま日誌を小脇に抱え、「また月曜日」と去ってしまう。濡羽色のツインテールがリズミカルに揺れていた。





 日誌を提出した天花を追いかけて、外。

 桜はまばらになって、小さな葉と一緒にそよいでいた。いまだ銃弾と戦車のあとが残る道に、踏み潰されて久しい花びらが茶色く朽ちている。

 はらり、舞い落ちる花びら。隣で天花が手を伸ばし、けれど花びらは指の間を器用にくぐり抜けていく。


 いよいよか、と優人は西のほうを見やる。

 

 協力者の――――内務科特待生、高嶺空花のもとへ、瀬戸とつぐみが訪れる。

 つぐみが黒十字の不正を伝え、瀬戸が説得する。

 黒十字法の改正のため動いてほしい、と。

 大人を説得するのは高嶺空花ただ1人、それで充分。

 けれどその裏には立案者の天花がいて、被害説明役のつぐみがいて、空花の協力を取りつけるために瀬戸がいて――――


 白道優人は、その輪にいない。

 ただ、眺めるだけ。


 白い指がチョーカーのチャームを押さえた。殺生病感染者のなかでも、黒十字の者だと示す証だ。

 歩くたびに鳴るのは歯切れのいい鈴の音。

 止まっても香るのはミントの香り。

 殺生病感染者にしか分からない、ほんの微かな音と香。


 白いまつげを震わせる優人の隣で、天花は今も微笑んでいる。細い首には何もなく、手首のリストバンドは突き放すほどに青い。


「優人」

 見上げる瞳は黒。ただし光がないわけじゃない。むしろ陽の光を浴びて、きらりきらりと輝きを帯びているようにすら見える。

「寄り道したい。優人もどう?」

「どうって」

 

 まだ商店街とは離れた路地だ。遠くに見えるビルはどれも崩れかけ、どこかがえぐれている。

 銃声が響き止んだのは昨日のことだ。あそこを占拠していたグループは何といったか。


「瀬戸が言ってたでしょ、物騒だって。まだ猟犬も見つかってないんだし」

「大丈夫。糸と布とミシンを買うだけ。遅くならない。……だめ?」

 一歩、天花が踏み込みながら首をかたむけた。ツインテールがふらりとゆれる。天花も決して背が低い方ではなく、むしろ他の女子より少し高い。とはいえ優人の方がさすがに長身だ。天花が上目遣いになるのも、この距離なら無理はない。


 目を閉じ、優人はそっと息を吐いた。

「分かったよ」


 それにその買い物リストなら、商店街でこと足りるだろう。糸と布は手芸屋で、ミシンは電気屋で買えるはずだ。


 それにしても。

「ミシンまでそろえるなんて、何するの?」

 商店街のほうから聞こえるのは福引の声。最終日のお昼だけあって大盛況らしい。まさか、あれのためだけに大きな買い物をするわけでもないだろうけれど。


 商店街まではまだ距離がある。当たりはずれを告げる声は、まだ天花には聞こえてないはずだ。

 微笑んだまま、天花は何事もないかのように告げる。

「衣装づくり。キャンプファイヤー、火の女神」


――――は?


 優人の足が止まったのは言うまでもない。むしろ軽く目を見開いただけというのが奇跡みたいなものだろう。


「それって臨戦学校の? まさか、手作り?」

 上ずった声の優人に、天花はひとつうなずいた。

「デザインと型紙はつくった。あとは作るだけ」

 なんて言いながら、バッグからクリアファイルを取り出した。


「縮小コピーだけど、これをお店の人に見せれば」

 不思議な形の図形。

 細かな、けれど潰れていない文字。


 これを、つくった?


「すごいな」

 優人の口から言葉がもれる。きっと、だれがその場にいても異口同音に言っていただろう。黒十字学園は、デザイン系でも服飾系でもないというのに。

 そんな賛辞に、天花の微笑みは変わらない。しいて言えば、黒い瞳が細かくふるえたくらいか。一瞬だけ目を伏せて、けれどすぐに優人を見る。口元には人形のような微笑み。


「……やり方、知ってれば誰でもできる」

 どこか透明な声だった。心なしか冷たい風が、二人の間をすり抜けていく。桜の花が、プツンと千切れ落ちる気配。


「いや、そんなことないって。天花が努力家なんだよ」

 何気ないひとことだった。少なくとも、優人にとっては。


 だが。


 その言葉に。


 初めて、天花の顔から微笑みが消えた。


 虚を突かれた、そんな顔だ。目は見開かれ、呼吸の音さえ一瞬止まった。


 そして、彼女の両目から。


 透明なしずくが、はらりと落ちた。


 ――――泣かせて、しまった。

「っご、ごめん。悪気なんかなくて、変な意味じゃなくて」

 慌てる優人に、天花は何度かまばたきして――――そこで、ようやく自分が泣いていることに気づいたらしかった。不思議そうに涙をぬぐい、優人を見てふわりと笑う。


 今までとは違う笑い方。

 雪と長い寒さの果て、色づいていた蕾が花開く――――そんな笑顔だ。頬は桜色を淡く浮かべ、黒い瞳には白い光。


「私……頑張った……頑張ってるから……! ずっと、ずーっと……、頑張ってきて……!」


 いつもより、ほんのわずかに声が低いのは。声を絞り出しているからだろうか。体の奥からの声が普段の声とは違うことを、優人はもう知っている。


 特待生、高嶺天花。

 すごい、とか。

 天才だ、とか。

 さすが、とか。

 きっと、きっとそうじゃない。

 

 だって、この涙。


 



 天花が落ち着いたのは、それからしばらく経ったころだった。

 いや、わりとすぐだったのかもしれない。

 時間を確かめることを忘れていたから、正解は神のみぞ知るというだけなのだが。

 風の香りが、商店街の音が、地面の固さが、影の境界が意識にまた溶けこんで、日常風景を織りなしていく。風に混ざって届くのは、鈴の音とミントの香り。猟犬のチョーカーだ。優人のそれと同じ。前から近づいてくる人のものだろう。まだ言葉を交わすほどの距離ではないが。


「……努力家なんて、初めて言われた」

 そう言って天花はまた、上品な仕草で歩き出す。姿勢がいいのも努力の賜物なんだろうか。

「努力も涙も、隠すようなものじゃないでしょ。頑張りたいなら頑張って、泣きたいなら泣けばいい」

「それも初めて」


 そんなことを話しているうちに、チョーカーの人との距離は縮んでいく。立ち止まる優人と彼とを見比べ、天花もまた足を止めた。

 敬礼する優人に、軍服の男は視線を向ける。首元で猟犬のチョーカーがリィンと揺れた。

「学校帰りか? 土曜日まであるなんて、大変だなお前ら」

「いえ、猟犬の皆さんに比べれば――――って」


 天花が、敬礼していない。


 それどころか、スマホをいじり出すくらいだ。

「ちょ、天花?」

 優人の早口は無視して、天花はスマホを耳に当てる。バッグから、石突きの尖った折り畳み傘を取り出しながら。


 ダイヤル音が途切れた。

「もしもし警察ですか?」


 その姿に、迫る拳。

 鈍い音。

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