酔生夢死
それはプレゼンの会場でのことだったという。
つぐみと蛍、2人で作り上げた論文の発表。スクリーンに資料の表紙が投影され、登壇を促すアナウンスが入り――――けれど、そのすべてから「Hotaru Tobiiri」の名前だけが消されていた。
論文の著者はTugumi Hoshitaruただ1人。
飛火入蛍は登壇すら許されなかったという。
それでも、たった1人でもつぐみはプレゼンを完遂した。発表の半分ほどは覚束なかったつぐみに送られたのは盛大な拍手。特にスポンサー席にはスタンディングオベーションをしている人までいたとか。
高評価だったことは誰の目に見ても明らかだ。しいて欠点を挙げるなら投影された資料のいくつかに不自然な空白があったことと、研究者の誰も聞いたことのない1人の名前を何度も口にしていたことくらいだろう。
さて、飛火入蛍は何を思うだろうか。
次の発表者が発表をはじめ、その内容に聴衆が耳を傾けてた。
会場を見回っていた長身の執闘医が、別の執闘医と交代した。
控室では発表順を待つ生徒たちが、それぞれに集中していた。室内のテレビは消されて、次の発表者がふるえる足で舞台袖へと向かう。
それぞれに時間を使っていた、その裏。
発表者と筆頭著者が、顔を合わせた。
2人が再び顔を合わせたのは舞台袖でも控室でも傍聴席でもなかったという。
薄暗い、無機質な廊下の隅。
虚ろな目をした飛火入蛍は、ふらりふらりと歩く星垂つぐみの体を抱きしめるように支えた。
ふりをして、死角から。
親友だった女のうなじを薄く裂いた。
器用にも傷口に垂らすのは、同じく薄く裂いた己の指から滲んだ血液。
殺生病感染者の血液。
100%の確率で服毒者を殺生病に感染させる、世界でいちばん残酷な猛毒だった。
淡く反響していたのはプレゼンと拍手の音。
リストバンドが青から赤に染まる瞬間を見ていたのは、監視カメラの黒々としたレンズだけだった。
誰かを故意に感染させること、それは殺生病感染者の絶対禁忌。
この日、また新たに猟犬候補生が誕生した。
この日、また新たに猟犬候補生が処刑されることになった。
その処刑役は――――
その日の「ロッカールーム」は夏なのに寒気を感じた。もっとも、それは優人だけだったかもしれないが。あの日から、思い出さない日はなかった。ロッカーを開けた瞬間、目に飛び込んできた金色の三つ編みを。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
白道優人の専用ロッカーで、拘束された蛍はただ謝り続けていた。顔は伏せられ、あの気弱そうな目は前髪の影に隠れていた。それでも冷たい色の明かりに、特徴的な金髪だけはいつも通りに輝いているというのが逆に虚しかった。
分かっていた。痛いほどに。
飛火入蛍を、この手で殺さなければならないということを。
なぜ。
どうして。
誰のせいで。
いやだ。
殺したくない。
殺さなければ。
蛍を殺さなければ。
殺さなければ、死――――
痛みがとぐろを巻いて左胸を駆け抜けた。はらりはらり、何かが剥がれる感覚があって――――止まった。
思考が止まった。
自我が止まった。
動きが止まった。
呼吸が止まった。
時間が止まった、錯覚。
視覚と右手の触覚以外の五感が消え失せた、そんな錯覚。
淡い青緑の瞳に映ったのは、血濡れた蛍の衣服だった。
破れたところから肌は見えて、けれどその色は血染め。
その体に、胸元に埋まる右手首。
その手首は血濡れた白い腕につながって、その腕は――――
白道優人の、腕だった。
喉が、短く音を鳴らした。
今、なにをした。
この手は、何を。
現実感がなかったのは最初だけだ。
右手を包む熱が。
嗅覚制御装置でも防ぎきれない血のにおいが。
指と指の間に絡みついた、なにかぶよぶよとした感触が。
突きつけた。
腹をえぐり、内臓をかき回したことを。
腹部だけでは飽き足らず、突っ込んだまま右手を上へと移動させたことを。
胸の中をまさぐり、ついには心臓を。
ぷちっ
いともたやすく握り潰したことを。
絞り出すような音が聞こえた。
遅れてそれが声だとぼんやり気づいた。
涙に濡れた響きで、喉の痛みと口の渇きでそれが自分のものだと気づいた。
この程度の痛みなど。
たかが口の渇きごとき。
錯乱と狂乱の中でも、なぜか優人の頭はこれ以上ないほどに澄んでいた。少なくとも、殺生病感染者の自己治癒力があっても失った血液は戻らない。それが分かるくらいには。
自分が蛍を殺したのだと自覚し――――己の右手を引き千切るくらいには。
守人が何か叫んだ。だが、それすら雑音でしかなかった。
誰かを殺すことしかできない手など。
いらない。
断面の片割れを求め、皮膚がびろびろと蠢いていた。
血管の、神経の、筋線維の、小骨の1本1本が思い思いに蠢いていた。
蠢いて、蠢いて、蠢く傷口が。
ただ醜かった。
結局、右手は守人がくっつけてしまったらしい。だから翌朝には傷跡ひとつ残らずただ白く元通りだった。唯一残った傷といえば、胸の傷くらいだろう。今も優人の胸元には薔薇のようにも見えるひび割れが刻まれている。
殺生病感染者は、24時間以内に誰も殺さなければ死んでしまう。体が崩壊して。
亀裂はその前兆で、一度刻まれたら消えることはない。例え目の前の人を殺したことで、崩壊そのものは防げたとしても。
その日から優人は「何も感じなくなった」。
嗅覚制御装置を外しても、大気の香りに酔うことはない。
聴覚制御装置を外しても、聞こえすぎる音に気を失うことはない。
今まで感情があったのが嘘のようだった。
蛍を殺したことに関して、悲しみも痛みもない。
蛍を殺させられたことに関して、憎しみも怒りもない。
ただ、つぐみとは話さなくなっただけで。
ただ、学長の顔を見ようとしなくなっただけで。
ただ、つぐみや学長を見ると、息絶えた蛍の姿が頭に浮かぶだけで。
ただ、そのたびに右手に塗りたくられた鮮血と、爪の間に入り込んだ内臓の破片の感触がよみがえるだけで。
ただ、あのときこみ上げた体の反応がぶり返すだけで。
ただ、目つきの温度が氷点下になっただけで。
ただ、表情筋が凍りついただけで。
蛍のリボンがひとつ守人の机にあるのに気づいたときは、さすがに「守人、それ蛍の、」
と反応したけれど。
「あぁ、どさくさに紛れて回収したんだ。殺処分になった人の遺品は処分されるからな。洗ったら色褪せちまったけど、血はついてない」
ネタ晴らしを受けたとたんに別の用事へと動き出していた。
そんな態度に、守人は苦言ひとつもらさなかった。ただ、棚に置かれた木箱へそれを入棺して言うだけだ。
「これは秘密だけどさ。仲間の殺処分かあったら、遺品をひとつずつ回収してんだよ。……あいつらが生きていた証だと思ってるから」
と。
「本当、笑わなくなったよな」
しみじみと言ったのは守人だった。声に合わせて、くちから白いもやが立ち上る。去年のクリスマスイブ前日は、それくらい寒かった。
「仏頂面ってわけでもないし……なんつー表情なんだ?」
「さぁね。特待生なら知ってるんじゃない? 春から上京してくるっていうし」
「そーいや蒼陰寮、上に階を増やしてたっけ」
ぼやいて守人は「まぁいいや」と優人に視線を流した。
「明日のクリスマス会くらい、笑えっての。クリスマスイブだぞ」
「行けたら行くよ」
「おう、じゃあ無理せずに……って、行かないやつのテンプレだろそれ。冬休みは昨日からだっての。しかもお前、半分くらいは宿題も終わってたよな」
お手本レベルのノリツッコミだった。あの頃、優人にあんなことできたのは守人をおいて他にいない。
「ったく、しょうがないやつめ。じゃあお前がサボるならおれもサボるってことで。ま、どのみちプレゼントは買うけどな」
もともと、そのための外出だった。クリスマス会、そのプレゼント交換会用のものを二人そろって買ってなかったから。連れ立ってというより、守人になかば引きずられながら寮を出てきたのだが。
「クリスマス会に出るなら交換用、そうじゃないならお前にやるよ。だから買うものは教えてやんない」
そんな軽口の応酬でも、優人に笑顔は浮かばない。
唯一、口角が上がるとするならば。
それを「笑み」と呼んでいいならば。
優人が「笑み」を浮かべるのは、地下室くらいだった。
ロッカーに拘束された囚人と彼は言葉を交わす。余裕そうな笑みを浮かべ、死刑囚の罵詈雑言ひとつひとつにゆったりと返事を紡いで。
そして痛みを覚えながら殺していく。
腹をかき乱し。
腹部から胸部へと、埋め込んだ手を埋め込んだまま移動させ。
胸の内をまさぐり。
心臓を握り潰す。
そう、あの日と同じように。
だからそんな彼に話しかけるのは、もう守人以外にあり得なかった。それ以外は疎んでいることなど、秋になる前から把握していたことだ。
「優人…………、殺し方についてはもうなにも言わないけどさ。せめて爪くらい切れって。囚人が痛がるだろ」
そんな指摘に
「長い方が殺しやすいんだよ」
と答えたことだってある。
――――翌日には深爪ギリギリになっていたのだが。
だから、クリスマス会など。
ある夜、誰かが優人を「化け物」と呼んだ。
ほんのわずかに優人の瞳が震えた。
守人が動いた。
殺人級の手が、「化け物」と呟いた者の喉笛を掴んだ。
「…………おい。だれが、化け物だって?」
クリスマス会直前、クリスマスイブのことだった。
その瞬間、草陰守人は闇落ちした……と判断がくだった。
12月25日。
独り「ロッカールーム」に入場する白道優人。専用ロッカーで彼を待っていたのは、他の誰でもない草陰守人だった。
「…………ごめんな、優人。嫌な役目をおしつけて」
それが遺言だった。
優人は平等に草陰守人を惨殺し――――
その夜から、「白い悪魔」と呼ばれるようになった。
守人を殺処分したことすら簡潔に記録して、その日も優人は日記を閉じた。ちょうど最後のページで、しかも行をはみ出してページのいちばん下まで。
二冊目を買いそびれたままだというのに。
「守人、明日って――――」
振り返っても静寂。
「――――っ」
片手で、顔をおおった。
その日切ったばかりの爪が、今度は己の顔に食い込んだ。五ヶ所に赤い線が刻まれて、けれど血が雫になるより早く傷は癒えていく。
「なに、言ってるんだ、ぼくは――――っ、守人は、守人なら、さっき――――!」
なぜか、絞り出すような声はふるえていた。
なぜか、その先は言葉にできなかった。
二人部屋は、一人で使うには広すぎる。
何気なく守人が使っていた机を見やって、ふと優人の目は包みにとまった。
派手な仕様ではない。
淡い寒色の包みで、白いリボンが巻かれている。「Merry Christmas」と刻印されたシールは、繊細優美の部類に分けられるものだろう。
冗談交じりの守人の声が、今さらのように頭に流れた。外を歩く映像つきで。
『クリスマス会に出るなら交換用、そうじゃないならお前にやるよ。だから買うものは教えてやんない』
導かれるように包みを取った。
そしてリボンを解いていく。
なぜかふるえる手で取り出したプレゼントは。
「――――っ」
ノートだった。
ミント色の表紙。
ページ数がとても多い。
間違いない。
だって、毎日同じ表紙を見てきたのだから。
これは。
優人が、日記として重宝しているノートだ。
「守人、きみは――――っ」
顔を上げたときには、もう真夜中だったのだろう。とはいえ殺生病感染者の視力があれば、暗さなど関係ないのだが。
開けっぱなしになっていたカーテンの外で、星が小さく輝いていた。
ふと、辺りを見わたす。
棚の上に置かれた木箱。
近づいて開くと、蓋の裏には名前と日付が書かれていた。二年前からはじまって、空蝉始・玉緒彼方……と、少なくない数の名前が並んでいた。そして、飛火入蛍の名が最後に。
ふと思い出したのは学長の言葉だ。あの日、守人に向かって放った言葉。
『君はどの候補生とも仲がいいようだ。『殺処分』の務めを、誰にも譲ったことがないくらいにね』
「――――っ」
うつむいた表紙に中身が見えた。
知らない男子二人との集合写真。
飾られなかった短冊。
他にもいろいろと。
そして、
いちばん上に
ふんわりと、
蛍のリボンがひとつ。
手が、吸い寄せられた。
こんな手ざわりだったのか、と思ったのはただの感想か、それとも。




