夢幻泡影
やけに蝉がうるさい日だった。
夏休み真っただ中。
とはいえ、猟犬候補生のやることなんて変わらない。山のような宿題をこなすか、休みだからこそ訓練に明け暮れるか。
そもそも、猟犬候補生は遠出が禁止されている。
万が一を防ぐためという名目で、日帰りか学園の許可が下りたもの以外の外出は禁止されているのだ。
とはいえ、その日だけは宿題も訓練も後回し。
なぜなら。
『黒十字学生論文コンテスト二次審査、プレゼン選考会の開催を宣言します!』
そう、蛍とつぐみの雄姿を見届けたかったからだ。といっても会場に行くわけではない。黒十字公式チャンネルでの生配信を見るというだけだ。
たとえ会場に行けなくても、見るなら広いところで。守人の提案だ。エントランスの談話スペースになったのは、きっとただの偶然だろう。
発表。そして質疑応答。どれも英語だったのは全世界同時配信だからだろう。世界レベルで知識を共有するためか、それともスポンサーの意向か。なにしろ会場となった巨大な視聴覚室は、スポンサーである四葩製薬のものらしいから。
四葩製薬。
――――「父」の職場だったという企業。
見ていれば何か思い出すだろうか。
プレゼン大会を見る理由に自分勝手な都合が混ざり込んだ。それでも守人に表情の変化を悟られなかったのは、まだ制御装置を2つともつけていたからだろう。顔の下半分が嗅覚制御装置でおおわれているなら、口元だって隠される。
だから
「速報です」
というニュースを聞き分けてしまったのは、罰だったのかもしれない。友達の雄姿を見守る以外に理由を持ってしまったことへの。
「四葩製薬株式会社で、違法薬物の製造が確認されました。四葩製薬は、医薬品シェア全国ナンバーワンであり……」
テレビはずっと遠いところにあった。なのにニュースは、耳元でささやかれているようだった。
帚木家爆破事件のことを思い出したわけじゃない。
どんなに記憶を遡っても、白いベッドで目覚めた瞬間より前にはいけない。白と黒と赤の記憶の中で修羅道さんが跪く。
「君の家を爆破した奴らは、まだ見つかっていない。これが帚木家を狙ったものか、あるいは連続爆破テロの幕開けか――――証拠がすべて燃え尽きた今、真相を突き止めるには君の記憶が必要かもしれないんだ」
――――あのとき「帚木家を狙った」という可能性があったのは。
その可能性を捨てきれなかったからで。
恐ろしい仮説が頭に浮かんだ。
帚木勇気は、職場で違法薬物が作られていることを知ってしまった。
通報のための証拠集め、同時に離婚の手続きを進めていく。家族に危害が及ばないように。
離婚は成功、彼は徒花勇気となる。
だが通報の前に暗躍がバレてしまう。そして、口封じのために殺された。なにしろ違法薬物を作れるだけの集団だ。しかも表向きは大手の医薬品メーカー。研究員ひとり、テロに見せかけて殺すことなど裏の人脈と表の財源を使えば朝飯前だろう。いや、財源も裏のものかもしれないが。
そうやって口封じは終わった、かに見えた。
だが、もし徒花勇気が誰かに証拠を託していたとしたら?
信頼できて、けれど会社とは直接の関係がない者。例えば、家族のように。
だから、元家族である帚木愛と帚木慶を消そうとした。家の中に隠されているかもしれない証拠の可能性ごと。
「――――いかなきゃ」
「いや、もうすぐ蛍たちの出番だろっ。行くってどこに」
それに答えることはできなかった。
ただ、走った。
踏切がなければきっと追いつかれなかったと思う。
そんなときに限って遮断機は目の前で降りて、電車が来るまでがいやに長かった。このまま聴覚制御装置を外してしまえば楽になれるかも。そんな馬鹿な考えが浮かんだとき、背後から気配。頭の中であの日の懇願が木霊した。
「……頼むから、もうこれ以上……おれに、ルームメイトを殺させないでくれ……!」
耳元にいきかけた両手がだらりと下がった。
そんなときなのに空はこれでもかというほどの快晴、おかげで影は黒々と足元に広がっていた。
優人とは正反対に、守人は息ひとつ乱れていなかったのだからすごい。それでも憔悴したように瞳が震えていたのは、ニュースひとつで儚さを増した優人の雰囲気に予感めいたものでもあったのか。
だから「飛び降り自殺でもするつもりか」などと問いかけて。
「同じ目をしてたからな、心が壊れた仲間と」
なんて、本質をついてきた。
きっと意地でも止めるつもりだったのだろう。それはとても高尚なことで、同時に残酷な言葉でもある。
「――もう、話してもいいかな」
どうせもう真実は報道されているのだから。
本当の名前。
感染のルーツ。
真実にしか見えない自分の仮説。
そして、誰かを殺してまで生きたくないということ。
もともと生きるのは真相が明らかになるまでのつもりで、今でもそれが変わらないこと。
セミの声が騒がしかった。話の途中で遮断機は上がって、それでも2人の足は地面に張りついたままだった。
「――止めても無駄だよ」
「……止めねーよ。もう、殺したくないんだろ」
押し殺す声は重々しく、握りしめられた両手からは皮膚が破れる音がした。爪が皮膚にめりこんだのだろう。
上げられた守人の顔はひどい表情で、それでも腹をくくった目で優人を見据えた。
「おれは見届けるだけだ。おれは最古参で、白道優人のルームメイトで、お前の友達だからな」
きっとそれが、彼にできる最大限の権利主張だった。
向かったのは学長室だ。死を選ぶにしろ、まずはその旨の報告から。修羅道さんがいるわけではないけれど、学長のコネで伝言くらいなら頼めるだろう――――そう思ったから。
「白道に草陰……要件を聞こうか」
レトロな部屋の中、見透かしたように学長は悠然とした様子だった。いや、実際に見透かしていたのだろう。そうでなければなぜ、校門から学長室までの最短ルートに鍵がかかっていなかったというのか。夏休みの日中だというのに。
不思議と、緊張はなかった。学園生活が始まってからそれまでの中で、いちばん心が落ち着いていたのを今でも覚えている。
「――四葩製薬が違法薬物をつくっていたと、速報がありました」
言葉を選んで、感情的にならないように。事実を、仮説を、決断を、けっして淀ませないように。
「事件が公になった今――もう、ぼくが生きていい理由なんてないですよね。――もともと、真相が分かるまでって話だったんですから」
一瞬の息を詰める気配は、追いかけてきた守人のものだった。優人の声が静まった合間に、ちょうどいいタイミングで声を入れてきた。
「……優人は言ってたんです。『誰かを殺してまで、生きたくなんかない』って……なら、言えるはずないでしょ……!」
「なるほど、両名ともに立派な覚悟だ」
椅子に沈み、学長は讃え――――けれど瞳に銀のナイフより鋭い光を浮かべる。
「そして、暇つぶしにちょうどいい独り芝居……いや、二人芝居といったところか」
嘲笑するような皮肉。
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
固まる優人とは対照的に、守人は怒り心頭だった。だが学長は部外者など眼中にない。恐ろしいまでの合理性で、優人の仮説の穴を突く。
「ここからは講評の時間だ。まず白道優人。君の仮説が正しいならなぜ、君を感染させる必要があった?」
「それは」
――――答えは、出てこなかった。
学長の問いは、足場を崩すには充分すぎたから。
足場といっても床のことじゃない。むしろ学長室の床は固く、高級そうなカーペットが敷かれていた。
なのに今立っている場所に亀裂が入って、奈落の底へと突き落とされる錯覚。
「報道用語の『違法薬物』とはすなわち大麻や覚醒剤、麻薬などの総称だ。そっち系の口封じなら、ただ殺すだけでいいはずだろう? 殺生病を登場させたら」
学長の言葉が止まった。だが、それもほんの刹那。そして、その刹那の間で目の鋭さはさらに増していた。
「黒十字が動く。警察よりも政府よりも有能とされた、殺生病犯罪のエキスパート集団が」
続く学長の言葉は不明瞭に響いて、それでも意味だけは痛いほどに刻まれて。
「それほどの愚を、犯すと思うのかい」
安らかな決意を深くえぐる。
その切っ先が向いたのは優人だけではなかった。
「次に草陰守人……君はどの候補生とも仲がいいようだ。『殺処分』の務めを、誰にも譲ったことがないくらいにね」
ずいぶんと含みのある物言いに、守人が早口で叫んだ。わずかに目を泳がせて。
「あれは……っ、学園側が決めているはずでしょ……!」
囚人が入ったロッカーは固定。そして、中身を決めるのはいつだって学園側。
それを学長が知らないはずがない。
反論する守人に学長は「確かに」と頷いた。だが顔の余裕は深まるばかり。
「『闇落ち・廃人化した仲間は、その者をもっとも大切に思っていた者が終わらせる』。『殺処分』の原則で、ときに『踏み絵』と称されるんだが……なぜだと思う?」
「なぜって」
守人の眉間はしわ。おそらく、本当に考えたこともなかったのだろう。そしてあの土壇場で思いつかなかった。
きっとあの瞬間、あのときの優人を岡目八目というのだろう。いつしか止まっていた思考回路が、あの時になって動きはじめていた。ただし、どこか外側で。
踏み絵。
キリスト教の信者をあぶりだすため、江戸幕府が人々に踏ませた絵のこと。
ならば、殺処分が意味するのは。
生徒の席も黒板もないアンティーク調の教室で、学長先生は教鞭をふるった。
「答えは『証明するため』さ。闇落ちした相手なら自分は共犯じゃないと、廃人になった相手なら自分は大丈夫だと」
窓からの光が、レトロなデザインの電話機を照らし出した。金色の金具は光を受けて輝き、今にもベルが鳴り出しそうな、あるいはついさっきまで使われていたような雰囲気を醸し出していた。
いや、実際には使われていたのだろう。
「君の罪はそれだけじゃないが……その報いはまぁ、今日のうちに払うことになるだろう。なにせ」
今思えば、あの日あの場に学長がいたのは。
「飛火入が闇落ちしたそうだから」
その対応に追われていたからだったのかもしれない。




