他人の名の重み
カインはシャツを着終えるところだった。
「一週間後にまた診させていただきます、アサヒさん」カツラギはドアを開けながら言った。
「たった三日で、核がこれほど回復するとは——驚きました」
「それでも、無理はしないように。体はまだ弱い」
(まだ、か。カゲヤがろくに鍛えもしない怠け者だったということは分かった)
カインは体を伸ばした。「そう長くはかかりません」
「焦らないで。目が覚めただけでも、奇跡なんですから」
少し考えてから口を開いた。「何があったんですか」
カツラギは誤魔化すように咳払いをした。
「何があったか、私には分からない。傷を治しただけです」
カインは腹の傷跡に触れた。指先がその輪郭をたどる。
(どうせ知っても、戻る手がかりにはならない)
「分かりました。問題ありません」
カツラギは部屋を出ようとして、出がけに振り返った。「聖花道に行ってから、随分変わりましたね、アサヒさん」
「そうですか。気づきませんでした」
カインはわずかに体を強張らせた。「……そんなに変わりましたか」
老医師は笑いながら遠ざかった。
(答えてくれ)
カツラギの足音が一階に降り、コハルに別れを告げた。
「カゲヤ、水を汲んできて。あなたのお姉さんと私、お風呂に入るから」コハルはドアを閉めながら言った。
(この寒さで?ホタルが凍えてしまう)
「はい、今行きます」
寒さを思って厚手の服を着込んだ。階段を下りると、コハルが家の掃除をしていた。
「桶に水を入れておいて。みんなで入るから。お父さんが今日帰ってくる」
カインは苦しげな表情で彼女を見た。(この人たちは寒さに免疫でもあるのか。この体ではちゃんと感じる)
「分かりました」
玄関には木の桶が二つ置いてあった。
(今日あのネサリが帰ってくる……緊張している、のか?)
桶を手に取り、外へ出た。
(聖花道——ということは、やはりここはネテリアだ。カゲヤが行っていたのは確かだが、生徒としてかどうかは分からない)
朝の凍てついた風が服に突き刺さる。雪の上には足跡が点々と続き、村に人影は少なかった。
(聖花道に戻れれば、ゲートまで半日もかからない。ようやく使える情報が手に入った)
(うまくやれば、逃げる必要すらないかもしれない)
カインの表情から笑みが消えた。(あいつらは俺を見て何と言う?俺だと分かるだろうか?この体で、あの人たちと生きていけるだろうか?)
足が止まった。(この家族はどうなる?)
桶を一つ下ろし, 自分の頬を叩いた。
(迷うな、カイン)
歩き続け、井戸の前で立ち止まった。
「なんで場所が分かったんだ」と小声で吐き捨てた。
若い男が腕を上げながら近づいてきた。
「アサヒ」
カインは敵意のこもった目で振り向いた。相手は驚いた様子だった。
「どうした、なんで不機嫌なんだ?」
(今はそういう気分じゃない)
縄のついた桶が水面を叩く音だけが返事になった。
「目が覚めたお祝いを言いたかっただけなのに」男は離れながらぼやいた。
カインは桶をいっぱいにして振り返った。「……ありがとう」
家に戻り、どこに水を捨てるかは体が知っていた。同じことを五度繰り返した。井戸にいる人々を無視して、その会話の間を縫うように行き来しながら。
名字を呼ばれたときだけ、手を上げた。
終わる頃には桶が満ちていた。カインは桶を所定の場所に置き、しばらく水面を見つめた。
「終わりました」家に入りながら言った。
「ありがとう、息子。妹にお風呂の準備をするように伝えておいて」
カインが探しに上がると、ホタルはすでに浴室にいた。
ドアの隙間から湯気が漏れていた。信じられない気持ちで近づいた。
中に入ると、ホタルが鼻歌を歌いながら、あの構造物に温かい湯を注いでいた。
以前目にしたあの紋様が、彼女の指の下で光っていた。湯が満ちると、カゲヤの表情に気がついた。
「見て見て、お兄ちゃん. ホタル、一人でお湯を入れられたよ」
カインはちらりと、二日前に入浴した長椅子の横の壁を見た。同じ紋様があった。
「どうやってやったんだ」
ホタルは目を細めて微笑んだ。「お母さんが教えてくれたの」
「そうか……」
「じゃあ、お兄ちゃんが入れるように出るね」
「うん、お兄ちゃん」ホタルはお湯に手を浸しながら答えた。
廊下ではコハルが上がりきったところだった。「お風呂、もう準備できた?」
カインが答えようとしたが、中からホタルの声が聞こえた。
「うん、お母さん」
「終わったら呼ぶね」
コハルは入ってドアを閉めた。
カインはカゲヤの部屋に戻った。(温かいお湯があったのか)
ため息をついて、少し笑った。(思ってたよりおかしくなかった)
ベッドに胡坐をかいて座った。
(あの紋様はホタルのマナに反応したのか?それともネテリアのマナを使っていたのか?)
(後で試してみよう。もう水風呂は嫌だ)
目を閉じ、集中した。ここ数日続けていることの続き——核のマナを体へ流す訓練だ。痛みがあっても止めなかった。
マナの密度と、それがカゲヤの体にどう作用するかに、少しずつ慣れてきていた。
(このマナの質には嫉妬する。もし最初からこれがあったなら、回復にここまでかからなかった)
(あんなことにはならなかった。ダイランが傷つくことも、エラーラが待ち続けることも)
……
(自分を欺くな、カイン。あれは全部お前の失敗が招いたことだ)
コハルが呼んでいることに気づかなかった。訓練に没入していた。
ドアが三度ノックされてから、彼女が入ってきた。
「お風呂、入れるよ」
カインは驚いて振り向いた。「あ、はい、ありがとうございます」
コハルは不思議そうに彼を見た。「何してるの?」
「いえ……体を、休めていただけです」
「そう……」
「遅くならないでね。隊商、もうそんなに遠くないはずだから」
廊下を歩きながら、ドアを開けたまま出ていった。
(大吾があの隊商と帰ってくるんだろう)
その名前を思い浮かべた瞬間、体に悪寒が走った。(もう泣くな、カゲヤ)
浴室に入ると、湯船は空だった. 何分もかけて動かそうとしたが、蛇口を開けるたびに冷水しか出なかった。
歯を食いしばりながら罵って、最初と同じやり方で体を洗った.
急いで拭いて、服で体をこすりながら温まろうとして、部屋に戻った。
(次こそ絶対に解決する)
手に息を吐きかけていると、外が騒がしくなった。
同じ声が何度も聞こえた——隊商が戻った、と。
カインは窓から覗いた。村の端に大きな荷馬車が近づいてくる。
コハルが廊下を歩き、興奮したホタルの手を引いていた。
「カゲヤ、何してるの?」
急いで二人に合流し、玄関まで続いた。外に出ると、ホタルが玄関先の大きな籠を指差した。
「籠、お兄ちゃん」
コハルは口元を押さえて、静かに笑った。
「相変わらずぼんやりしてる」
カインはつられたように笑った。「考えごとをしていました。すみません」
雪で覆われた小道を歩いた。ホタルが一歩跳ぶたびに、小さな靴の下で光の粒が弾けた。
「何を考えてたの、息子?」
カインはホタルが遊ぶのを見つめ、少し間を置いた。
「聖花道のことを……あそこで過ごした時間を思い出していました」
コハルの表情が変わった。「今はそんなこと、どうでもいい」
(俺には関係ある)
カインは作り笑いを浮かべた。「また戻れるかどうか、ふと気になっただけです」
コハルの歩みが遅くなった。「あれだけのことがあって、そんなことを聞くの?」
「今は話さないでいましょう。いいですか」
そのトーンにカインの足が止まり、無言でうなずくだけだった。
何人ものネサリが同じ方向に向かっていた。村の寒さとは裏腹に、場の空気は温かかった。走り回る子どもたち、籠を抱えながら話す女たち。
隊商が村の端に止まった。皮で屋根を覆った大きな木造の荷馬車が、十人ほどのネサリに囲まれていた。
大吾はその中心にいた。イワカミを連れて。
人々が集まり, 出迎えが始まった。大吾に話しかけるとき, その敬意は明らかに大きかった。
カインはコハルの隣で観察した。(記憶より、ずっと大きい)
大吾が苗字を呼び始めた。家族が一組ずつ前に出た。
「兎の毛皮は売れた」大吾は擦り切れた麻袋を渡しながら言った。
「ありがとうございます、アサヒ頭領」
終わると、大吾はイワカミに荷台を開けるよう指示した。
様々な品物——野菜、燕麦や米の袋、その他もろもろが現れ、一言もなく村人たちが列を作った。カインは順番が決まっていることに気づいた。
受け取ったばかりの金で品物を買っていく。値段に文句を言う者もいたが、和やかな空気は崩れなかった。
イワカミは笑いながら説明した。「水霧王国が、街道の魔物増加を理由に値を上げていまして」
「税まで上がらないといいけど」
大吾が女性をなだめた。「仕事が増えるということだ」
「頭領がそう言うなら、大丈夫ですね」
カインは耳を傾けていた。
(水霧……まったく心当たりがない)
(街道の魔物が増えている……ダンジョンで亀裂でも起きたか)
人々が引き揚げるとき、コハルに小さくお辞儀をしていった。
荷台が空になり、残ったのはイワカミと大吾だけになった。そこへがっしりとした女性が近づいた。
「あなた!どうだった?今回の旅、上々だったでしょう?」
「自慢屋のひげ面め」と彼女は笑いながら返した。
「イワカミさん、あなたの分は荷台にあります」大吾はコハルに手招きした。
三人が近づいたとき、ホタルが大吾のもとへ駆け出した。
大吾が抱き上げると、その体の大きさが分かった。小さなホタルが胸元にも届かない。
(化け物みたいに大きい。カゲヤが背が高いのも当然だ。ダイランより大きいくらいだ)
大吾がカゲヤを見た。
「何をしている。籠に入れてしまえ、イワカミが荷車を片付けられん」
カインは近づきながら、体全体に広がる居心地の悪さを感じた。
(またこの感覚だ)
荷台を眺めた。「それで……どれを取ればいいですか」
「いつもの場所に決まってる」
(それが分からないんだ)
荷台に上がった。(どうせだ、ここだろう)
ゆっくりと籠に詰め始め、訂正が入るのを待った。入らなかった。ひっそりと息をついた。
(運よく当たった)
背後で両親の会話が聞こえた。
「コハル、何か変わったことはあったか」
「はい、大吾さん。ホタルが今日、一人でお湯を入れられました」
「難しかったか?」
まだ大吾の腕の中にいるホタルが、にっこりして両手を挙げた。
「ぜんぜん、お父さん。簡単だった」
(お前にはな)
大吾は少しだけ口元を緩め、コハルを見た。
「カゲヤは」
「カツラギ先生が、よく回復しているとおっしゃっていました」
「ならもう頃合いだ」
「まだ早いと思います」
(何の話をしているんだ。無視するな)
大吾はカゲヤをちらりと見た。「魔物が増えている今、待てない。我が家には果たすべき務めがある」
コハルはしばらく黙ってから答えた。
「分かっています、大吾さん。でも、体がまだ……」
(もどかしい)
カインは籠を抱えて近づいた。
「俺は構いません」
コハルが驚いた顔をした。大吾も同じ目でカインを見た。
「待て、カゲヤ、まだお前は——」
「ふざけているのか」大吾は短く言った。
その言葉がカインの肺を打った。まるで二本の手が息を塞いだように。
(この感覚。この居心地の悪さ)
(もうたくさんだ)
「冗談を言った覚えはありません」
大吾の目が大きく開いた。
コハルが夫のそばに寄った。その顔には信じられないという色が浮かんでいた。
「カゲヤ、どうしたの?」
「何でもありません。聞かれたから答えただけです」
「お父さんにその口の利き方はやめなさい!」
コハルのそのボリュームを聞いたのは初めてだった。思わず一歩後ずさりした。
大吾はホタルを妻に渡してからカインに近づいた。
「いつもと同じことをするな」
「明日から始める。失望させるな」
カインは何かに息を詰まらされるような感覚を覚えた。直感のような、内側からの声。何かが謝らせようとしていた。
「しません」




