未知なる記憶
前日より寒い朝だった。風に揺れた窓がきしんでいた。
扉が三度叩かれた。
「坊や、起きてる?」
カインはゆっくりと息を吸った。「うん」
「よかった」小春は入ってくる前にそう言った。
「よく眠れた?体の具合は?」
二人の視線は合わなかった。
「大丈夫、心配しないで」カインは答えた。
「少し疲れてるだけ」
「そう……ね」小春の微笑みが少し翳った。
サイドテーブルまで歩き、水の入ったコップを置いてから前日の食器を片付けた。
「朝ごはんを作ってくるね。降りてくる前にお風呂に入って。ずっとそのままだから、汗を流してきなさい」
「(ずっとそのまま)」
「わかった」
「何かあればすぐに言ってね、坊や」
「そうする」
小春は出る前に床を見た。彼女の足音が少しずつ遠ざかっていった。
「(倒れてからどれくらい経った?ずっとこの体にいたの?)」
カインはベッドから起き上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
「(おそらく……いや、ここはネテリアのはず。時間はあとでいい。今大切なのは、自分がどこにいて、どうやって戻るかだ)」
脚を自分で叩いた。
「(この体をヴェイルを渡れるように鍛えないといけない)」
クローゼットへ行き服を取り出したが、下着を手にしたところで止まった。
「(昨日も見た……床に投げたはずだ)」
その布地を強く握った。「(それでも……自分で考えてここまで来たわけじゃないのが嫌だ)」
首を振った。「(まずお風呂に入って、それから調べよう)」
乾かすための布と着替えを一式持った。
「(待って……風呂場ってどこだ?)」
小さな足音が台所へ降りていくのが聞こえた。
「(ちょうどいい、こそこそ探せる)」
部屋をゆっくり出て、泥棒のように一枚一枚扉を開けていった。
風呂場を見つけて入った。
「(やった)」
着替えをかごに入れ、鎧戸を開けると、シャワーがなかった。代わりにあったのは、膝の高さほどの長方形の構造物だった。
「(これは何だ!?)」
「(蛇口がこれに直接……)」
構造物を確かめると、腰掛けと小さなシャワーらしきものがあった。
近づくと、見たことのない模様の蛇口が一つだけあった。少し開けると、冷たい水が出てきた。
「(正気か、この寒さでお湯もなしに入れってのか!)」
「(嫌だ、そこまで頭おかしくない)」
着替えを取りに戻りかけたとき、思い切って自分の匂いを嗅いで、嫌そうな顔をした。
……
「(入るしかないか)」
洗面台の上に小さな鏡があった。近づき、初めてじっくりと自分を見た。
「(俺の顔より少し荒削りだな。大人っぽくも見える、そんなに差はないけど)」
腕を伸ばすと違和感が走った。「(……背が高い。俺より高い)」
シャツを脱いだ。「(でも俺の体の方がずっと鍛えてあった)」
皮膚を伸ばしながら、筋肉の少ない感触を確かめた。
腹部の傷跡を指でなぞった。へそから肝臓のあたりまで伸びていた。
「(体を鍛えてこなかったなら、この傷も納得だ)」
傷はまだ新しく、癒えたばかりだった。
皮肉な笑みが薄れた。右腕に感覚があり、同じ側の目がはっきり見えることを思い出したからだ。
「(それとその身長、認めてやる)」
最後の一枚を脱ごうとしたとき、心臓が締め付けられるような恐怖を感じた。視線が自然と股間へ向いた。
息を止め、全ての意志力を使って、最後の一枚を脱いだ。
これまでで最も得意げな笑みが、ゆっくりと顔に広がった。
「(勝ったぞ……景哉)」
この勝利に気をよくして、風呂場で石鹸を探した。
自信満々に腰掛けへ歩いた。壁に押しつけて、心の準備をした。
蛇口を開けると、死にかけた動物のような声を出しながら、できるだけ早く体を洗った。
素早くだが丁寧に体を擦った。震えながら時折水から離れたが、意地になって洗い続け、悪態をつき続けた。
終わると布で体を拭き、温めようと力強く擦った。
「お、お、おかしい……ど、どうやって……こんなの……入れるんだ」
持ってきたごわごわした厚い布地の服に着替えた。出る前に扉を見た。
「(さて、難しいのはここからだ。知らないことを聞かれたらどうする。何か作らなきゃ)」
扉を開ける前に、マエナの声が頭に響いた。嘘をつき通せないなら、黙っていた方がいい。
「(その通りだ、指揮官。疲れたふりをして、面倒くさそうに返事するのが一番だ)」
廊下に出ると、小春の声が聞こえた。
「お風呂、気持ちよかった?景哉。もうすぐ朝ごはんできるよ」
「今行く」
カインは階段を降り、まず目に入ったのは、テーブルに座って小さなパンを食べている蛍だった。
一口ごとに音が聞こえた。パンは柔らかくはなかったが、その笑顔は気に入っているのをよく物語っていた。
「お兄ちゃんも食べる?」と笑顔で聞いた。
「大丈夫、ありがとう」
蛍は自分のパンを見た。「そっか……」
「座って、坊や。もうすぐ出すから」
小春は木を彫った三枚の皿をテーブルに並べた。中には濃いおかゆのようなものが入っていて、大きくて色の濃い粒があった。
いくつかの根菜と、じゃがいものようなものもあった。
母親は同じ素材のスプーンを添えた。
「(やっぱりカトラリーはあるんだな)」
カインはそれを持ち上げた。「(形が少し違うけど)」
小春はテーブルに着き、両手を合わせて静かに祈り始めた。
「世界のマナが生命の輪廻に宿ることに感謝します。去るものは戻り、終わるものは始まる」
「(生命の輪廻?何の話だ?)」
「景哉、手を合わせなかったじゃない!」
カインは蛍を見た。パンを挟んだまま、両手が合わさっていた。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「午後も忘れないでね。お父さんに怒られるから」
「……そうならないようにする」
「じゃあ、食べましょ」
二人はおかゆを食べ始めた。カインもスプーンで少し掬った。
「(少し土の匂いがする……まあいいか)」
カインは塩辛いのが気にならないふりをしながら、食べることに集中した。
蛍が音を立てながら食べる中、三人は静かに食べていた。
「調子はどう?どこか痛い?」
「疲れてるだけ。大丈夫」
小春はスプーンを下ろした。
「大丈夫って……起きたばかりなのに」
エメラルド色の目が自分を透かして見ているようにカインは感じた。
「俺……ごめん、まだ混乱してて」
小春は立ち上がり、景哉の額に手を当てた。
「心配しないで、ここにいるから」
突然抱きしめた。「一緒にいてくれて嬉しい」
カインは小春の胸が脈打つのを感じ、泣くまいとしているのがわかった。
「どうすればいいかわからなかった……」
景哉の手が母親の腕に触れたが、何も言えなかった。言えなかっただけでなく、何を言えばいいかわからなかった。
小春は離れ、目元を拭いた。
「ご飯を食べ終えたら休んで。午後にお医者さんが様子を見に来るから」
カインはほとんど目を上げられなかった。
「(こんなに大変なことになるとは思っていなかった)」
「うん、ありがとう」
急いで食べ終え、立ち上がった時に皿を手に取った。
小春が不思議そうな顔をした。「何してるの?」
「え?」カインは振り向いた。
「片付けようとしてる?」
小春の表情が温かくなり、テーブルに置くよう促した。
「私がやるから」
カインは皿をテーブルに置き、振り向こうとしたところでもう一言聞こえた。
「休んでね、坊や」
カインは階段を上り、手をひと差し伸べただけだった。部屋に入ると、扉を閉めて寄りかかった。
小春に触れた手が、かすかに震えているのが目に入った。
目を閉じた。「(忘れるな、やることがあるだろ、カイン)」
ベッドに足を組んで座った。
できる限りリラックスし、感覚の全てを集中させて、景哉の体の中のマナを探った。
「(全身にマナを感じられない。これは……全然違う。小さな核が体の中心にあるだけだ)」
「(ミラ先生の言ってたとおりだ、周囲のマナの方が濃い)」
顔が曇った。「(それでも、この体のマナは俺が持ってたものより練られていない。一体何してたんだ、景哉、この間ずっと)」
「(俺が半分しかなかった時より少ないじゃないか)」
腹部の傷跡を指でなぞった。
「(これのせいか?)」
不満そうなため息が漏れた。
「(また同じことをやり直すのか)」
窓の外を眺めた。
「(あの頃は体力もマナも取り戻すのにずいぶん時間がかかった……その時間はない)」
「(今できる最善は、練習してきたやり方でこの体のマナを使えるようになることだ。昨日はうまくいかなかった)」
カインはマナをより正確に動かす方法を理解しようとしながら一日が過ぎた。
体全体にエネルギーを流しながら、全身からではなく核からマナを引き出す違いに戸惑い続けた。
マナを強化したり体の一部を強化しようとするたびにうまくいかなかった。ミラが説明していた違いが現実のものとして迫ってきた。
時間が経つにつれてカインは苛立ちを募らせた。何年も練習してきたことが役に立たなかった。
爆発しそうになった時、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「(今度は何だ!?)」
小春が誰かと話す声が聞こえた。続いて足音が階段を上がってきた。
横目で窓を見ると、もう夕方になっていた。
「(お医者さんか……)」
扉が三度叩かれた。
「坊や、お医者さんが来たよ。入っていい?」
「どうぞ」
小春が高齢のネタリ女性と一緒に入ってきた。
「朝陽くん、具合はどうかしら?」
「苛立ってます」
老女は不思議そうに小春を見てから、小さく笑った。
「そういう答えは予想してなかったけど、驚きはしないわね」
ゆっくりした足取りで近づいてきた。
「あなたの身に起きたことを考えれば……目が覚めてくれて、安心しました」
「(また肝心なことを言わない……)」
「ベッドに横になって、お腹を出してちょうだい」
カインは言われた通りにした。
老女は目を大きく見開いた。カインが居心地悪く感じるほどだった。
「傷が……もう塞がってる……」
両手から水が広がり、景哉の腹部を包んだ。濡れることなく全身を循環した。まるで体の中に入ろうとしているかのようだった。
医者の表情が引き締まった。
「怪我の痕がない。再構成されていた部分が……もう完全に……」
「(再構成!?)」
「こんなに早く終わるなんて、どうして?」老女の視線が景哉の目を真っ直ぐ捉えた。
小春がすぐに近づいた。
「何か悪いことがあるんですか、葛城さん?」
医者の視線が頭を動かさずに小春へと滑った。
「悪いこと?」
カインには永遠のように感じられる沈黙があった。「(早く答えてくれ)」
葛城はしゃがれた笑い声を上げた。
「わからないのよ。こんなの見たことがないから」
笑い終えてから続けた。
「生命力に影響がないか確かめないといけない。こんなに速い回復が副作用なしで済むはずがないから」
「動かないでいてちょうだい、朝陽くん」
診察はもう少し続いた。「何が起きたか覚えてる?」
「何も覚えてない」
老女が作り出した水が、マナの核を包んでいるようだった。
「そう……」
葛城が集中を高めると、景哉の体が浮くような感覚があった。彼女のマナが体を丁寧になぞっていた。
「核が少し傷んでいる……でもそこにあるべきではないものが感じられる」
その表情とマナがより密度を増した。
「何なのかはわからないけれど、あなたの回復を助けたようね。悪意は感じない」
「体は健康よ。でも生命力には確かに損傷がある」
医者が離れると、水が消えた。
「また診に来ます。他に損傷がないか確かめないといけないから」
「……わかりました」
葛城は優しく微笑んだ。「安心してね、朝陽くん。大丈夫だから」
老女はしぼんだように、ゆっくりと小春に近づいた。
「朝陽さんのお母さん、安心してください。彼は元気です。数日後にまた来ますね」
「葛城先生、来ていただいてありがとうございます」
小春は微笑んで部屋を出て、二人とも家を出た。カインは彼女たちが小道を遠ざかっていくのを見ていた。
「(核と生命力が損傷……厄介だな)」
「(どうせなら、早くこの体のマナを使えるようにしないといけない)」
カインはまた練習を続けようとベッドに戻った。
しかしいくら試みても集中できなかった。廊下に小さな足音が聞こえた時だった。
蛍が走って部屋に入ってきた。
「おにいちゃん、えぐえぐ、クマが見つからない」
カインは立ち上がって扉まで歩いた。
「大丈夫、一緒に探そう」カインはちょうど出ようとしたところで止まった。
言葉は考える前に出ていた。
「(待て……クマ……なぜぬいぐるみだとわかった?)」
「(なぜこんなに不安な気がする?)」
「(茶色いクマ。くたびれている。左耳にパッチ)」
右目を手で覆った。「(まるで前に見たことがあるみたいに思い出せる)」
蛍が彼を見上げた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
カインは左目だけで彼女を見た。
「うん、大丈夫」
「(俺に何が起きている?)」




