179 心臓を狙う者たち
天蓋が完全に砕け、曇天ではあるが空が元通り望めるようになった湖上都市ルーティア。
曇天が故に晴れ晴れとした雰囲気ではないが、リーシャとフィリアのおかげで空気は澄み渡り、冷えたものではあっても、どこか心地のいい風が頬を撫で、髪を遊ばせる。
城の敷地内にある、湖にもその風は吹き、湖畔に佇むフリードも、心地よさに瞼を閉じ、身体の強張りを溶かしていた。
「全く・・。君たちの為に残ったのに、そのせいで蚊帳の外にされてしまったじゃないですか」
湖から吹く風を肌に感じつつフリードは溜息をつくように愚痴を溢し、そんなフリードの元に複数の足音が近づいてきた。
「あら。態々お出迎えに来てくれたなんて、嬉しい」
閉じていた瞼をそっと開くフリードの目はあまりに感情の失せたものだった。
かといって蔑みや嫌悪もない、只々、見たそのまま、何の感情も抱かぬ表情でフリードは、その、華やいだ声に振り向き、目を向けた。
「ギャハハッ」
振り向いた視界に飛び込んできたのは、獰猛な笑みを浮かべフリードに猛進する男。
燃え盛るような赤髪を風に靡かせた男は、身体に紫電と黒煙を纏わせフリードに襲いかかる。
パンッ
だが、その男の頭部が次の瞬間には消え去るように弾け飛び、頭を失ったその身体は呆気なく地面に落ちた。
「フィーに会いに来たのでしょう?」
振り向いたフリードの手には開かれた一冊の本。
その本の上に這うように赤紫の火が現れ、開いたページだけを器用に燃やし尽くす。
フリードはもちろん、共にやってきただろう、残り二人も目の前で絶命した男に興味を示すことはなく、飄々とした態度で向き合った。
「せっかくジキルド(リッチ)が精霊の元に招かれ、結界に綻びが生まれたのですから、次代の結界が紡がれるまでの僅かな時、せっかくですから足を運ばなければ失礼でしょう?」
「全くもって、いらない気遣いですね・・」
満面の笑みで愉しげに語る女には、誂うような意思も、逆なでるような嫌味もない。
それ故、フリードの溜息は一層深いものとなり吐き出された。
社交的と言っていいのかわからないが、明るく語る女と、全く対照的な顔を伏せたまま縮こまるような女の二人。
明るく語る女は、貴婦人と言っても差し当たりないような、整ったドレスと髪飾りを身につけたご婦人だが、そのどれもが黒を基調とした重い色で、喪服そのもの。
今この地においては、何も間違ってはいないのだが、彼女の場合、それが通常で普段着だとフリードも知っている。
しかし、それとは真逆に、俯き、陰鬱な雰囲気の女は、パッチワークで作られた服とローブを纏い、その陰鬱な雰囲気とは不釣り合いに、華やかな服装。
ただ、本人の纏う雰囲気と態度や仕草があまりにアンバランスでどうにもちぐはぐ。
そして、こちらも、これが普段通りで、この二人がジキルドを悼む為にこの場に来たのではないことだけは確かだった。
「・・・お祖父様から、この湖は特に魔力が溜まっていて、綻びやすいとは聞きましたが、まさか、その通り、何の捻りも小細工もなしに、堂々と来るとは思いませんでした。・・少々気を張っていたのが恥ずかしいくらいですよ」
黒いドレスの女はそんなフリードの言葉に、クスクスと口元に手を添えて楽しげに笑った。
「おかしな事をおっしゃるのね。何故に私たちが貴方たち『劣等種』ごときに策を労じなければならないの?」
心からのフリードの言葉をジョークとして受け取った女の言葉には、これまた、嫌味も何もない。
蔑みとも言えないそれは、只々純粋に、何の含みもない見下し。
「とはいえ、あのお方へのご挨拶はまた今度かしらね・・。流石に『三魔帝』が揃う中に私たちだけで飛び込むのは、少し骨が折れるもの」
その言葉に、レオンハートを甘く見ていない事は確かだが、同時に恐れも抱いていない事が伝わる。
「あぁ・・本当はすぐにでもお会いしたい・・。何しろ、あのお方の『魔法』は、あまりにも素晴らしくて、強大な魔力には恐怖を覚えるほどの快感を覚えたもの。我らのもとにすぐにでもお招きしたい――――」
恍惚とした表情で語り始めた彼女の言葉を遮るように、フリードは開かれた本を向けた。
その瞬間、本の開かれたページは先程と同様、赤紫の火を這わせた。
だが、その本を持つフリードの腕・・肩が貫かれたように風穴を空け血を散らした。
「――――表情一つ変えないなんて・・・相変わらず、可愛げのない」
フリードが本を向けると同時に向けられた杖。
その杖を静かに下ろすと共に、面白くなさそうに冷淡な声を漏らす女。
フリードは肩を押さえるように片手を押し当てるが、声だけでなく、その表情さえ変えることなく、吹き出し溢れる血を強く押し留めていた。
「フィーに手を出す事を許すわけがないでしょう?」
「じゃぁ、ソフィア――――」
――――――ッ
瞬間、激しく甲高い音がつんざめくように響き、フリードと女の間を空気が弾け、大きな衝撃と共に強風が波となって広がった。
一瞬のことだったが、その一瞬で地面を抉るには十分な衝撃だった。
そこに生まれたクレーターに湖の水がチョロチョロと少しずつ流れ込む頃には、微風が頬をなでる程度になっていたが、互いの身体に残った衝撃からの痺れは名残として残っていた。
三度、掲げられたフリードの手の中の本は、開かれたページを赤紫の火で焼き、女は杖を真っ直ぐにフリードに向けていた。
「・・・こんな冗談もわからない男の何処がいいのかしら」
女は溜息と共に杖を再び下ろし、呆れた目をフリードに向けていた。
そして、煩わしいとでも言うように軽く手を振った。
「私たちが、彼女の機嫌を損ねるようなことするわけないじゃない」
「よく言いますね」
「貴方たちと同じよ。私たちも『身内』には甘いの」
「一緒にしないで頂きたいですね」
自身も呆れたような態度を向けてはいたが、フリードのあまりにつれない態度に少々つまらなさそうに眉を顰めた。
そして、周囲に視線を向ける。
「人払いはしてありますので、邪魔が入ることはありませんよ」
女の様子を見て、フリードは端的に答えた。
周囲に薄く広がる霧。そこに仄かに漂う魔力。
それは、単なる人払いではなく、魔術的なものである証拠。
「あら、よろしいのかしら?」
「君たち相手では、他の者は寧ろ足でまといですからね」
「まぁ、私たちが弱者を人質にでもすると思っているの?遺憾だわ」
「事実、私は一度、君たちにそういった意味で襲われたのですがね」
「そんなこともあったわね」
クスクスと口元に手を当て嗤う様子は、暖簾に腕押し・・と言うよりも、話が噛み合っていないか、通じていない。
「それで?・・フィーが目的でなければ、ご要件は何でしょう?」
「あくまで、あのお方にお会いするのが一番の目的よ?誤解の無いように言っておくけど」
「それで?」
フリードの視線が鋭いものに変わると共に、女の笑みも深まった。
「『心臓』を、頂きたいの」
満面の・・と言うより、背筋が凍るような、恍惚とした表情で女が告げる。
その瞬間、もう一人の俯いた女が前に出て、その体躯にそぐわぬ、巨大な杖を構えた。
「お、起きてっ」
目視できるほどに大きく、濃い魔力の奔流。
「てめぇみたいなガキが舐めんじゃねぇよ」
フリードに影が落ちると共に眼前に現れた、燃え盛る赤髪の男。
獰猛な表情で、狂気に染まった目。
だが、その男の頭つい先程、吹き飛び完全に消失していたはず。
しかし、そんなことなど初めからなかったかのように、男の頭はそのまま。
血に濡れる事も、何処かに支障があるようでもなく・・寧ろ、先程の、襲いかかる続きを再生するかのように、フリードの眼前に迫っていた。
急くように駆ける足音。
「リリア様っ、こちらですっ」
息を切らせた執事の先導に、リリアとグレース、そして何人もの騎士たちが追従していた。
大股で全力疾走など、貴婦人としては、はしたなく、あるまじき姿だが、それを咎める者は誰もいない。
本人たちもそんな事を気にする余裕がないことなど、その表情を見れば誰でもわかる。
急ぎ駆けた末、たどり着いたのは、城内とは言え広大な、湖の畔。
普段ならば、トリー家の手が行き届いた、美しい桟橋からゴンドラに乗り、遊覧を楽しみ、風を楽しむ場所。
だが、今、その場にはそんな風情など望むことはできない。
「・・青の結界」
グレースの唖然とした呟き、それもその筈。
それは、古くから機密を守り続けた、今尚、国益のためにも使われるような魔術結界。
霧で惑わすだけの単純なものではあるが、単純であるが故に、そこに求められるものも、純粋な技術と力。
王宮魔術師でさえ、限られたごく一部だけにしか扱えず、更には個人で施行するなど、不可能だと断じていいほど。
そしてそれは当然レオンハートでも例外ではなく。
グレースの夫であるゼウスでさえ、何人かの補佐を必要としていた。
だからこそ、それをたった一人で・・それもまだ成人前の少年が行使しているなど、例えレオンハートでも、あまりに規格外だった。
「・・歴代最高の魔導王・・・」
それは、二つ名でも比喩でもない。
フリードを称するでもなく、誰からともなく知る事実。
「行くわよっ!!」
唖然とするグレースとは違い、リリアは止まらない。
その手には、装飾の美しい片手剣、煌めいた白刃の中心に竜が刻まれた直剣。
それを構えるリリアの実に堂に入ったもの。現大公妃であり、元王女、それがどうしてか、騎士よりも様になった姿。
「はぁっ!!」
鋭く、迷いのない剣閃。
形あるものはおろか、形ないものさえ断つような一閃。
その一閃は、霧を揺らめかせた。
「ヴァルツ!!」
それを見て、グレースが叫ぶ。
すると、大きな白い鴉が舞い降り、強い突風を生み出し、霧を吹き飛ばした。
「フリードっ!!」
揺らめき晴れ始めた霧の中、そこには、血に塗れたフリードがいた。
まだ少年の身体には多すぎる血の池の中、膝を着き、それでも、俯かず何かを睨むようにして。
だが、それでも、リリアの声に反応して、振り向いたフリードは、リリアたちの顔を見たことで安心したのか、フッと意識を途切らせ、べちゃりと地面に落ちた。
リリアは急ぎそんな息子の傍に駆け寄り、抱き抱える。
すると、フリードは曖昧な意識の中、今はもうそこに何もいない場所を見つめていた。
「・・サバト」
僅かな意識の中呟いたフリードの言葉に全員が息を飲んだ。




