第3話 夜更けの密かな剣磨き
暗闇が食堂を包んだ直後、ドンドンと控えめに、だが確かな力で扉が叩かれた。
「こんな夜更けに誰だ」
グレンが再びランプに火を灯し、かんぬきを外して重い木の扉を開けると、そこには見覚えのある顔があった。
「おやじさん、開いてるか!?」
息を切らした駆け出しの冒険者、ロイだ。つい数時間前に山を降りていったはずの若者が、なぜかまた戻ってきている。その後ろには、上等な外套を羽織った恰幅の良い中年の男が立っていた。
「……さっき街に帰ったばかりだろうが」
「ギルドで報告したら、すぐこの人の護衛を頼まれてさ。急ぎで峠を越えたいって言うから、とんぼ返りしてきたんだ」
ロイの背後から、中年の男が一歩前に出て愛想よく頭を下げた。
「夜分に申し訳ない。行商人のバルドと申します。若いのに腕の立つ護衛が見つかって助かりましたよ。空き部屋はありますかな?」
グレンは無言で頷き、二人を中へ招き入れた。
グレンは厨房に入り、落としたばかりの竈の火を再び熾した。
ロイはテーブルに剣を置き、どっかりと椅子に座って大きく息を吐く。
「いやあ、今日の俺はツイてた。あの後、依頼の魔物に遭遇したんだけど、剣の調子がめちゃくちゃ良くてさ。嘘みたいにあっさり倒せたんだ」
「そうか」
グレンは短い相槌を打ちながら、塩漬け肉の塊を包丁で薄く削ぎ切りにしていく。
バルドはその様子を、少し離れた席から静かに観察していた。
(……ほう)
バルドの目は、行商人としての鋭い観察眼でグレンの足運びに釘付けになっていた。
厨房という狭い空間で、火から水場、棚へと移動する動きに、一切の無駄がない。足音が全くしないのだ。重心が常に一定で、いついかなる方向から襲われても即座に反撃できる体勢を保っている。呼吸の乱れ一つなく、まるで武の極致を体現しているかのようだ。
(ただの宿屋の親父ではないな。それも、並の凄腕じゃない)
バルドは長年、危険な街道を行き来し、多くの傭兵や冒険者を雇ってきた。本物の強者を見抜く目には自信がある。目の前の無口な男は、間違いなく一騎当千の化け物だ。
しかし、バルドはあえて微笑みを崩さなかった。
(詮索は無用、か。ここは心地よい隠れ家になりそうだ。余計なことを聞いて、この場所を失うのは惜しい)
バルドはただの客として振る舞うことを決め、出された温かい茶をすすった。
やがて、グレンが二人の前に湯気を立てる皿を置いた。
香ばしく焼かれた肉と、山の香草を炒め合わせた簡素な夜食だ。
「食え」
「いただきます!」
ロイが勢いよくかき込む。バルドも一口食べ、思わず目を見開いた。
(美味い……! ただの塩と香草の味付けだが、火の通し方が絶妙だ。肉の旨味が完全に閉じ込められている)
「おやじさん、あんたの飯は最高だな」
バルドが感嘆の声を漏らすと、グレンは「余り物だ」とだけ返して背を向けた。
食後、二人は二階の客室へと上がっていった。
ロイは疲れ切っていたのか、剣をテーブルに置いたまま、すぐに泥のような寝息を立て始めた。
深夜。
客が寝静まったのを確認すると、グレンは再びランプを片手に食堂の片隅に座った。
手元には、先ほど木箱にしまったばかりの使い込まれた砥石がある。
グレンの視線は、ロイが置き忘れていった剣に向けられていた。
「……また刃こぼれさせてやがる」
今日、魔物を討伐したと言っていた。その時の衝撃だろう。
グレンは小さくため息をつき、剣を手に取った。
「仕方ない」
彼は砥石に水を垂らし、静かに刃を滑らせ始めた。
シュッ、シュッという微かな音が、夜の静寂に溶けていく。
グレンの指先は、剣の重心の狂い、微細な歪み、金属の疲労を正確に読み取っていた。
(ここは少し厚みを残す。ここは鋭く)
十年以上、戦場で己の命を預ける武器を手入れしてきた感覚。それはもはや、呼吸をするのと同じくらい自然な行為だった。
グレンは無心で剣を磨き続けた。
ただの鉄の塊が、次第に凄まじい冴えを取り戻していく。刃の表面には、まるで名工が鍛え上げたかのような波紋が浮かび上がっていた。それは、極限まで研ぎ澄まされた金属だけが放つ、冷たい輝きだった。
翌朝。
「うおおおおっ!?」
二階からロイの叫び声が響き渡った。
ドタドタと階段を駆け下りてきたロイは、ピカピカに磨き上げられた剣を握りしめていた。
「おやじさん! これ、どういうことだ!? 俺の剣が、新品みたいになってる!」
カウンターでグラスを拭いていたグレンは、ちらりと視線を向けただけで、すぐに手元に目を戻した。
「錆びてたから、ついでに拭いておいた」
「拭いたレベルじゃないって! 刃こぼれも全部直ってるし、なんか前より軽くなった気がする!」
「気のせいだ」
グレンはそっけなく言い放つ。
そのやり取りを、階段を降りてきたバルドが静かに見つめていた。
バルドの目には、ロイの剣が放つ異様なまでの鋭気がはっきりと見えていた。
(……あの剣、ただ研いだだけじゃない。刀身のバランスまで完璧に調整されている。一晩で、しかもあんな安物の剣を、業物に変えたというのか)
バルドは内心の驚愕を隠し、人懐っこい笑みを浮かべた。
「いやあ、よく眠れました。おやじさん、お勘定を」
「銀貨二枚だ」
バルドは銀貨をカウンターに置き、ロイの肩を叩いた。
「さあ、行こうか。護衛頼むよ」
「おう! 任せてくれ!」
宿の外に出たロイは、朝日を浴びて輝く剣を満足げに眺めた。
「ちょっと、素振りしていいか? なんか、すげえ調子良さそうなんだ」
「構わないよ。私も見てみたい」
バルドが頷くと、ロイは剣を上段に構えた。
そして、無造作に振り下ろす。
ヒュンッ、という軽い音を予想していた。
しかし、鳴り響いたのは、空気を引き裂くような異様な風切り音だった。
ゴォォォンッ!
ロイの剣が通った軌跡の空気が歪み、突風が巻き起こった。
周囲の木々が激しく揺れ、地面の砂埃が舞い上がる。
「え……?」
ロイは目を見開き、自分の手と剣を交互に見比べた。
ただ軽く振っただけだ。魔力も込めていない。
それなのに、まるで熟練の剣士が放つ絶技のような威力の片鱗が、そこにはあった。
バルドもまた、言葉を失って立ち尽くしていた。
(……なんだ、今の太刀筋は。剣が、持ち主の腕を引き上げているとでもいうのか?)
手入れを重ねられた剣は、泊まるほどにどこまで冴えていくのか。
二人はただ、静まり返った峠道で、圧倒的な事実の前に息を呑むしかなかった。




