↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/4

第2話 ボロボロの客と固いパン

「冷めるぞ」


グレンのぶっきらぼうな声で、ロイは我に返った。


慌てて木製の椅子に腰を下ろし、盆の上の椀を手に取る。昨夜と同じような、塩漬け肉と豆のスープだ。それに固い黒パンが添えられている。


一口すすると、じんわりとした温かさが胃の腑に落ちていった。


「美味い……」


ただの塩味ではない。山の香草が肉の臭みを消し、豆の甘みを引き立てている。固い黒パンも、スープに浸すと程よい食感になり、噛むほどに滋味が溢れ出した。


何より驚いたのは、食事を進めるごとに体の奥底から活力が湧き上がってくることだ。昨夜は一歩も歩けないほど疲労困憊だったというのに、今は手足の隅々まで力が満ちている。


「おやじさん、この飯、何か特別なもんでも入ってんのか?」


ロイが身を乗り出して尋ねると、グレンはカウンターの奥で洗い物をしながら背を向けたまま答えた。


「ただの塩と香草だ。さっさと食って行け」


素っ気ない態度に、ロイはそれ以上追及するのを諦めた。


一気に平らげ、銅貨を数枚カウンターに置く。


「世話になったな、おやじさん。俺、もう一回頑張ってみるよ」


「勝手にしろ」


背中越しに投げられた言葉は冷たかったが、ロイは不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、そのぶっきらぼうな響きの中に、確かな気遣いを感じ取っていた。


宿を出発し、山を降りる道中。


ロイは自分の足取りが羽のように軽いことに気づいた。いつもなら息が上がる急勾配の山道も、全く苦にならない。


ふと、前方の茂みがガサリと揺れた。


飛び出してきたのは、緑色の肌をした小鬼——ゴブリンだ。しかも三匹。昨日、ロイを死の淵まで追い詰めた群れの一部に違いない。


「チッ……!」


ロイは反射的に腰の剣を抜いた。


ヒュンッ!


空気を裂く鋭い音が響く。その軽さに、ロイ自身が目を見張った。


先頭のゴブリンが粗末な棍棒を振り上げる。ロイは無意識に踏み込み、剣を薙いだ。


硬い手応えはほとんどなかった。


まるで水を斬るような滑らかさで、棍棒ごとゴブリンの胴体が斜めに両断される。


「うおっ……!?」


自分の放った一撃に、ロイが一番驚いていた。残りの二匹が仲間の死に怯み、後ずさる。


その隙を逃さず、ロイは流れるように刃を返した。


力みは一切ない。剣が勝手に最適な軌道を描いているかのようだ。そして、漲る活力がその動きを完璧に支えている。足運びはブレず、視界は恐ろしいほどクリアだった。


あっという間に三匹のゴブリンが地面に転がった。


息一つ乱れていない。


「すげえ……俺、こんなに動けたのか?」


いや、違う。剣が完璧すぎるのだ。そして、あの朝飯のおかげで体が信じられないほど軽い。


ロイはゴブリンの耳を討伐証明として切り取ると、足早に街へと向かった。


街の冒険者ギルドは、朝から多くの荒くれ者たちで賑わっていた。


ロイは受付カウンターに直行し、血の滲む袋をドンと置いた。


「討伐完了だ。確認してくれ」


ギルドのベテラン職員であるドノバンが、片眼鏡を押し上げながら袋の中身を覗き込む。


「ほう。ゴブリン三匹か。お主、昨日は泣きべそかいて逃げ帰ってきたばかりじゃろうに。命拾いしたなら、少しは休むのが道理というものじゃぞ」


「うるせえな。今日は調子が良かったんだよ」


ドノバンは鼻を鳴らし、ふとロイの腰にある剣に目を留めた。


「……お主、その剣、見せてみろ」


「え? ああ」


ロイが剣を鞘から抜いてカウンターに置くと、ドノバンの目が大きく見開かれた。


「なんじゃこれは……」


しわがれた声が震えている。ドノバンは剣を持ち上げ、窓からの光に透かすようにして刀身を見つめた。


「刃の角度、重心の調整、それにこの滑らかな表面……。王都の筆頭鍛冶師でも、ここまで完璧な仕事はそうそうできんぞ。どこで打たせた?」


「打たせたっていうか……泊まった宿の親父が、ついでに手入れしてくれたんだよ」


「宿の親父じゃと? 馬鹿な。こんな業物、素人の手慰みでできるわけがない」


「本当だって! 峠道の途中にある宿だよ。飯もすげえ美味くてさ、食ったら体の疲れが全部吹っ飛んだんだ」


ドノバンは信じられないという顔で、剣を隅々まで観察している。長年ギルドで武具を見てきた彼の鑑定眼が、この剣が異常な代物であることを告げていた。


「……ふむ。まあよい。討伐の報酬じゃ。それと、規定通り宿泊先の記録を書いていけ」


ドノバンは銀貨を数枚渡し、分厚い帳面を差し出した。


ロイは渡されたペンを握り、昨夜の記憶を思い出しながら文字を走らせる。


『灯火亭』


それが、ギルドの記録に初めてその名が刻まれた瞬間だった。


ドノバンは帳面を覗き込み、顎髭を撫でる。


「灯火亭、か。妙な噂にならねばよいがな」


老人の呟きは、喧騒にかき消されてロイの耳には届かなかった。


客のいない夜の灯火亭。


グレンはカウンターの奥で、一人静かにランプの火を調整していた。


パチパチと爆ぜる薪の音だけが、静寂に包まれた店内に響いている。


昨夜、ロイの剣を手入れしたことを思い出す。あんなボロボロの剣で魔物とやり合えば、死ぬのは目に見えていた。刃こぼれは酷く、重心も狂っていた。


だから、つい手を出してしまった。


「お節介が過ぎたか……」


グレンは低く呟き、カウンターの下から小さな木箱を取り出した。


蓋を開けると、中には砥石と油壺、そして使い古された布切れが入っている。


特別な魔道具ではない。伝説の職人が作った秘宝でもない。


ただ、グレンが長年使い込み、手入れを怠らなかっただけの、ごく普通の道具だ。


グレンは布切れを手に取り、厨房の包丁を静かに磨き始める。


彼にとって、武具の手入れは呼吸と同じくらい当たり前のことだった。戦場を生き抜くための最低限の作法。


その「当たり前」の水準が、外の世界の最高峰を遥かに凌駕していることに、彼は全く気づいていない。


英雄が無自覚に使う常識外れの道具と技術。


それはこれから訪れる客たちに、どれほどの奇跡と噂をもたらしていくのか。


グレンはただ、明日の仕込みのために、無心で刃を研ぎ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。