第2話 ボロボロの客と固いパン
「冷めるぞ」
グレンのぶっきらぼうな声で、ロイは我に返った。
慌てて木製の椅子に腰を下ろし、盆の上の椀を手に取る。昨夜と同じような、塩漬け肉と豆のスープだ。それに固い黒パンが添えられている。
一口すすると、じんわりとした温かさが胃の腑に落ちていった。
「美味い……」
ただの塩味ではない。山の香草が肉の臭みを消し、豆の甘みを引き立てている。固い黒パンも、スープに浸すと程よい食感になり、噛むほどに滋味が溢れ出した。
何より驚いたのは、食事を進めるごとに体の奥底から活力が湧き上がってくることだ。昨夜は一歩も歩けないほど疲労困憊だったというのに、今は手足の隅々まで力が満ちている。
「おやじさん、この飯、何か特別なもんでも入ってんのか?」
ロイが身を乗り出して尋ねると、グレンはカウンターの奥で洗い物をしながら背を向けたまま答えた。
「ただの塩と香草だ。さっさと食って行け」
素っ気ない態度に、ロイはそれ以上追及するのを諦めた。
一気に平らげ、銅貨を数枚カウンターに置く。
「世話になったな、おやじさん。俺、もう一回頑張ってみるよ」
「勝手にしろ」
背中越しに投げられた言葉は冷たかったが、ロイは不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、そのぶっきらぼうな響きの中に、確かな気遣いを感じ取っていた。
宿を出発し、山を降りる道中。
ロイは自分の足取りが羽のように軽いことに気づいた。いつもなら息が上がる急勾配の山道も、全く苦にならない。
ふと、前方の茂みがガサリと揺れた。
飛び出してきたのは、緑色の肌をした小鬼——ゴブリンだ。しかも三匹。昨日、ロイを死の淵まで追い詰めた群れの一部に違いない。
「チッ……!」
ロイは反射的に腰の剣を抜いた。
ヒュンッ!
空気を裂く鋭い音が響く。その軽さに、ロイ自身が目を見張った。
先頭のゴブリンが粗末な棍棒を振り上げる。ロイは無意識に踏み込み、剣を薙いだ。
硬い手応えはほとんどなかった。
まるで水を斬るような滑らかさで、棍棒ごとゴブリンの胴体が斜めに両断される。
「うおっ……!?」
自分の放った一撃に、ロイが一番驚いていた。残りの二匹が仲間の死に怯み、後ずさる。
その隙を逃さず、ロイは流れるように刃を返した。
力みは一切ない。剣が勝手に最適な軌道を描いているかのようだ。そして、漲る活力がその動きを完璧に支えている。足運びはブレず、視界は恐ろしいほどクリアだった。
あっという間に三匹のゴブリンが地面に転がった。
息一つ乱れていない。
「すげえ……俺、こんなに動けたのか?」
いや、違う。剣が完璧すぎるのだ。そして、あの朝飯のおかげで体が信じられないほど軽い。
ロイはゴブリンの耳を討伐証明として切り取ると、足早に街へと向かった。
街の冒険者ギルドは、朝から多くの荒くれ者たちで賑わっていた。
ロイは受付カウンターに直行し、血の滲む袋をドンと置いた。
「討伐完了だ。確認してくれ」
ギルドのベテラン職員であるドノバンが、片眼鏡を押し上げながら袋の中身を覗き込む。
「ほう。ゴブリン三匹か。お主、昨日は泣きべそかいて逃げ帰ってきたばかりじゃろうに。命拾いしたなら、少しは休むのが道理というものじゃぞ」
「うるせえな。今日は調子が良かったんだよ」
ドノバンは鼻を鳴らし、ふとロイの腰にある剣に目を留めた。
「……お主、その剣、見せてみろ」
「え? ああ」
ロイが剣を鞘から抜いてカウンターに置くと、ドノバンの目が大きく見開かれた。
「なんじゃこれは……」
しわがれた声が震えている。ドノバンは剣を持ち上げ、窓からの光に透かすようにして刀身を見つめた。
「刃の角度、重心の調整、それにこの滑らかな表面……。王都の筆頭鍛冶師でも、ここまで完璧な仕事はそうそうできんぞ。どこで打たせた?」
「打たせたっていうか……泊まった宿の親父が、ついでに手入れしてくれたんだよ」
「宿の親父じゃと? 馬鹿な。こんな業物、素人の手慰みでできるわけがない」
「本当だって! 峠道の途中にある宿だよ。飯もすげえ美味くてさ、食ったら体の疲れが全部吹っ飛んだんだ」
ドノバンは信じられないという顔で、剣を隅々まで観察している。長年ギルドで武具を見てきた彼の鑑定眼が、この剣が異常な代物であることを告げていた。
「……ふむ。まあよい。討伐の報酬じゃ。それと、規定通り宿泊先の記録を書いていけ」
ドノバンは銀貨を数枚渡し、分厚い帳面を差し出した。
ロイは渡されたペンを握り、昨夜の記憶を思い出しながら文字を走らせる。
『灯火亭』
それが、ギルドの記録に初めてその名が刻まれた瞬間だった。
ドノバンは帳面を覗き込み、顎髭を撫でる。
「灯火亭、か。妙な噂にならねばよいがな」
老人の呟きは、喧騒にかき消されてロイの耳には届かなかった。
客のいない夜の灯火亭。
グレンはカウンターの奥で、一人静かにランプの火を調整していた。
パチパチと爆ぜる薪の音だけが、静寂に包まれた店内に響いている。
昨夜、ロイの剣を手入れしたことを思い出す。あんなボロボロの剣で魔物とやり合えば、死ぬのは目に見えていた。刃こぼれは酷く、重心も狂っていた。
だから、つい手を出してしまった。
「お節介が過ぎたか……」
グレンは低く呟き、カウンターの下から小さな木箱を取り出した。
蓋を開けると、中には砥石と油壺、そして使い古された布切れが入っている。
特別な魔道具ではない。伝説の職人が作った秘宝でもない。
ただ、グレンが長年使い込み、手入れを怠らなかっただけの、ごく普通の道具だ。
グレンは布切れを手に取り、厨房の包丁を静かに磨き始める。
彼にとって、武具の手入れは呼吸と同じくらい当たり前のことだった。戦場を生き抜くための最低限の作法。
その「当たり前」の水準が、外の世界の最高峰を遥かに凌駕していることに、彼は全く気づいていない。
英雄が無自覚に使う常識外れの道具と技術。
それはこれから訪れる客たちに、どれほどの奇跡と噂をもたらしていくのか。
グレンはただ、明日の仕込みのために、無心で刃を研ぎ続けていた。




