第72話:過渡の盟約、黒竜の追撃
数十年の時を遡る――。
場所は、竜たちの統治する異風の地・ドラゴン王国。
国王ドラグニール・J・ヴァルムンドが治める厳かな居城の中庭、城門の上の広場で、一人の幼き少年が気持ちよさそうに広大な空を見上げていた。
しばらくすると、その幼い身体を丸ごと覆い尽くすほどの、あまりにも巨大な影が上空より飛来する。
漆黒の輝きを放つ堅牢な鱗、威風堂々たる雄姿――黒き巨竜レイドール・フォン・ライオネルが、重厚な地鳴りを響かせて城門へと舞い降りた。
少年――カスティエル王子は、その圧倒的な姿に目を輝かせると、嬉しそうにレイドールのもとへと駆け寄った。
『これは……カスティエル王子。お出迎えいただき、感謝の極みにございます。お父様はどちらにいらっしゃいますかな?』
威厳に満ちたレイドールの声が、カスティエルの脳裏に直接響き渡る。
「お父さんなら、この城の隣にある緑の丘のあたりに飛んでいったよ!」
カスティエルは無邪気に笑顔で答えた。
『そうでございますか。ありがとうございます。それでは――』
直後、爆発的な暴風が巻き起こり、レイドールは大きな翼を広げて広大な大空へと飛び立っていった。
幼きカスティエル王子は、空の彼方へ消えていくその偉大で黒い雄姿を、目を輝かせながらいつまでも眺めていたのだった。
◇
あくる日、ドラゴン王国の境界近くに位置する、極めて人目に付きにくい岩山の深い渓谷。
絶壁の影に、一人の人間を背に乗せた黒き巨竜が静かに降り立った。
『ヴァルガス様……そのようなことが、本当に可能なのでしょうか?』
レイドールの背から滑り降りたのは、宮廷魔術師ヴァルガス。その脳裏に、レイドールの問いかける声が響く。
「ふふふ……案ずるでない、レイドール。……『運命の羅針盤』、あの力は本物であった。その力は絶大だ」
ヴァルガスはそう呟くと、禍々しく黒光りする一冊の分厚い本を掲げて見せた。
「私はこの本で、この魔力の薄き世界を変えようと思う。お前は……この私について来てくれるか?」
『はっ……! このレイドール、ヴァルガス様の仰せのままに……』
巨竜は巨大な漆黒の頭を、地面に触れんばかりに低く低く垂れた。
ヴァルガスはその頭部へそっと手をかざすと、朗々と不思議な響きの呪文を唱え始める。
瞬間、レイドールの巨大な体躯が眩い光に包まれ、やがてその光は徐々に収束し、小さくなって消え去った。
光が上がったあとに立っていたのは――仕立ての良い上品な服に身を包んだ、一人の人間の青年だった。
青年は驚きに満ちた目で己の双方の手を見つめ、思わず声を上げる。
「こ、この姿は……! これが『運命の羅針盤』の力ですか……!?」
その声はもう脳裏の念話ではない。レイドール自身の口から発せられた『音』であった。
「運命の羅針盤というよりは……それによって導かれた『あのお方』の力だがな」
ヴァルガスは不敵に微笑む。「いずれにせよ、我々はこの世を変える絶大な力を得たのだ。これはそのほんの一部に過ぎん。……この私と共に、行くか? レイドール」
「ははーっ! 仰せのままに……!」
青年レイドールはヴァルガスの前で恭しく膝をつき、深々と頭を下げた。
ヴァルガスは深い渓谷の底から上を見上げ、細く切り取られた空を眺める。
「ところでレイドール……私はここから出たいのだが、またあの黒い姿を見せてくれるか?」
ヴァルガスはおどけるように、にやついた顔を向けた。
「もちろんですとも!」
レイドールは一瞬のうちに青年から猛々しい巨竜へと姿を変え、大きな翼を力強く広げた。
――その日を境に、ドラグニール王の腹心であった英傑レイドールは、姿を消し、行方不明となった。
◇
そして数十年の時を超え――舞台は魔将軍アイゼンの居城に戻る。
レイドールの放った地獄の如き灼熱ブレスが、狭い回廊を一瞬にして埋め尽くす。
「くっ……!!」
「うわあっ!!」
直前に交差するように二手に分かれて飛び退いたクリストフとトリスタンは、間一髪でブレスの直撃を免れていた。
城門へ続く下の回廊に滑り込んだトリスタンが、上の階層に追い詰められたクリストフを見上げて悲痛な叫びを上げる。
「クリストフ! なんでそっちに!? そっちには逃げ場がないよ!!」
「トリスタン! お前だけでも外に出ろ! フリントたちにこのことを伝えるんだ!」
「なんで……! クリストフを見捨てて行けるわけないだろ! 今そっちに行く、一緒に行こう!!」
「トリスタン、聞けぇっ!!」
クリストフは鋭い眼光でトリスタンを見下ろし、怒号を飛ばした。
「俺を見捨てるわけじゃない! これは……作戦だ!! 頼む、俺を信じろ!!」
一瞬、二人の視線が激しく交錯する。
クリストフの覚悟に満ちた眼差しを受け止め、トリスタンは強く、深く頷いた。
「クリストフ! 信じてるからね!!」
トリスタンは脇目も振らず、城の外――仲間たちの待つ中庭へと向かって全力で走り出した。
「よし……いい子だ。生き延びろよ」
クリストフが呟いたその瞬間――ゴオォォッ!!と大気を灼く音が響き、2発目のブレスが回廊の角を曲がって押し寄せてきた。
「うわあぁぁっ!?」
クリストフは寸前で上の階段へ飛び移り、波寄せる熱波を回避する。
回廊の奥から、ズシン……ズシン……と重厚な地鳴りのような足音が響き、巨大な黒竜レイドールの影が刻一刻と迫りつつあった。
「くそっ……!」
クリストフは体勢を立て直すと、迷うことなく上の階段を駆け上がっていった。




