第58話:雪解けの足跡
しんしんと雪が降り積もる、ブラッドラインの街道。
耳鳴りがするほどの重い静寂のなかを、衣服の擦れる微かな音と、サクッ、サクッという規則正しい足音だけが続いていく。
盲目の剣士サヤは、特徴的な赤い鞘の先端で前方の障害物を確認しながら、一歩一歩慎重に道を進んでいた。
視覚を失っている彼女の五感は、常人の数十倍鋭い。だからこそ、彼女は先ほどから己の身に迫る明確な危険を感じ取っていた。
(……誰かが、後ろから付いてきている)
不思議と、そこから明確な殺気は感じられなかった。しかし、周囲の空気を歪ませるような、圧倒的かつ異様な気配が背後に漂っている。
一瞬でこちらの命を絶つ、それほどの実力を持った何者か。
サヤの体躯は細く、小さい。静寂の里で凄腕の剣士として鍛え上げられたとはいえ、純粋な腕力や体格では男たちに遠く及ばない。
だが、彼女にはそれを補って余りある技術があった。ひとたび刀を抜き放てば、いかなる強敵であっても瞬時に致命の一撃を与える――その一撃必殺の能力こそが、彼女の真髄だった。
戦いを長引かせることは、彼女にとって死を意味する。だからこそ、仕掛けるなら最初の一撃で完全に仕留めなければならない。背後の気配は、彼女にそう判断させるに十分なほど底知れなかった。
サクッ……。
背後の足音が、はっきりと男性のものだと認識できるほど近くに迫った。
その刹那、サヤの身体が爆発的な速度で反転する。鋭く踏み込むと同時に、全神経を集中させた一撃必殺の『壱の太刀』が、電光石火の軌跡を描いて空間を裂いた。
――キイィィィンッ!!!
雪山に、驚くほど乾いた鋭い金属音が響き渡る。
「なっ……!?」
サヤの口から、驚愕の声が漏れた。
自身のすべてを懸け、絶対の自信を持って放った神速の一閃が、完全に受け止められている。通常では絶対にあり得ない、彼女の常識を遥かに超えた事態だった。
「カ……カイエン、さん……?」
刃を交えた至近距離で、サヤはその独特な気配をはっきりと感じ取り、息を呑んだ。
「よう」
漆黒の眼帯をした男――カイエンは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、美しく閃く刀を滑らかな動作で鞘へと納めた。
「どうして、ここに……?」
「お前を探しに来たんだよ。静寂の里のソウケンから、『あいつを助けてやってくれ』って頼まれてな」
「そんな……私は、里の宝であるこの刀を勝手に持ち出した、裏切り者なのに……?」
俯き、自嘲気味に呟くサヤの言葉を、カイエンは豪快に笑い飛ばした。
「お前な……まだそんなことを気にしてるのか? 刀の持ち出しが『裏切り』だなんて、師匠の真意じゃなかっただろ。里の奴らはみんな、お前のことを心配してるんだぜ」
「……ありがとうございます。でも……」
サヤが申し訳なさそうに言いかけたとき、カイエンはそれを遮るように言葉を続けた。
「分かってる。まずは一緒にエルムを探そう」
「え!? なんでカイエンさんまでエルムを……?」
思わず、サヤが視覚のない顔を上げる。
「どのみち、今回の件はお前らの力も借りたいと思っていたところだったんだ。悪いな」
「私たちに? 一体どうしてですか?」
「――『レイドール』が生きていやがったんだ」
カイエンの口から漏れたその名に、サヤの表情がこわばる。「レイドール……? それは、どういう人なんですか?」
「黒本党の幹部だ。だが、今までのお前らが戦ってきたジゼやカミラ、そしてあのガルディス……そんな幹部どもとは、文字通り格が違う。おそらく、黒本党における『最強の相手』だ」
「え……? そんなに強い幹部が、まだいたんですか?」
「ああ。あの激戦の最中、巧みに身を隠して生き残っていやがった。……そしてな」カイエンは視線を落とし、ぼそりと呟いた。「おそらく……あのヴァルガスも、まだ完全には死んじゃいねえんだろうな」
「そんな馬鹿な! だってあの時、きっちりと灰も残らないほど、焼き尽くしたんじゃないんですか!?」
「ああ、肉体はな。だが、もともとあいつは死体になろうが何だろうが、『意識』だけで生きていた化け物だろ?」
「それは……そうですけど……」
サヤは言葉に詰まり、唇を噛んだ。かつての戦いの元凶が未だ闇に潜んでいるという事実に、背筋が寒くなる。
「まあ……まずはエルムの捜索が先だ。この先のブラッドラインか?」
「ええ。それっぽい目撃情報を聞いていたので、向かおうとしていました。……でも、本当にいいんですか? お言葉に甘えてしまって」
「ああ、そう言ったろ?」
「……ふふふ」
サヤの口元から、自然と温かい笑みがこぼれ落ちた。
「なんだよ?」
カイエンが不思議そうにサヤを見つめる。
「なんだか、あの頃みたいですね。あの大きな船に乗って、みんなでレティシアに渡ったときのような……」
「……まあ、そうだな」
カイエンの口元にも、どこか懐かしむような優しい笑みが浮かんだ。
「そういえば……マルコはどうしているか、知っていますか?」
「あいつか。あいつはな、プリコーグっていう村で『破戒僧』の名をようやく返上して、今じゃ『聖者』として認められたらしいぜ」
カイエンは歩き出しながら、楽しそうに話を続けた。
「何でも、村の若い修道士たちを引き連れて、正規の討伐隊なんかじゃ到底手が回らないような各地を巡っちゃ、奴隷や難民を解放する活動をしてるらしい」
「へえ……。ふふ、本当にマルコらしいですね」
「ああ、全くだな」
しんしんと降り積もる雪の街道に、並ぶ二人の足跡が深く刻まれていく。
その行く手には、白く雪の積もった屋根が幾重にも連なる、少しばかり活気のあるブラッドラインの町並みが、白銀の世界のなかに静かに見え始めていた。




