第56話:鏡のなかの悪魔
薄暗く、埃の匂いが立ち込める古ぼけた聖堂の奥深く。
色褪せた神像の前に置かれた巨大な鏡の前で、豪奢な法衣に身を包んだ男が一人、静かに膝を突き、祈りを捧げていた。
「いま再び、悪しき者たちの足音が聞こえてまいります。今一度、哀れな我らに奇跡をお与えください……」
男が切実に祈る姿が、目の前の巨大な鏡に映し出されている。しかし、その鏡のなかの男の後ろには、さらに同じ鏡が映り、その中にはまた鏡の前に祈る男の姿が連なっていた。
それは合わせ鏡ではない。無限の奥行きを持って連鎖する、鏡のなかの鏡。光の物理法則を無視して果てしなく続くその光景は、静謐でありながら、どこか異様で不気味な気配を孕んでいた。
不意に、不可解な歪みがその空間を支配した。
一番手前の鏡から数えて、三枚目の奥に映り込んでいたはずの「鏡のなかの男」が、祈る後ろ姿から、ゆっくりとこちらへ正面を向いたのだ。無数に連なる像のなかで、その一人だけが、現実の男の動きを完全に裏切っていた。
鏡のなかのその男は、祈りを捧げる男の顔をしていなかった。それは、皮膚が焼けただれたかのような、悪魔ともつかぬおぞましい形相をしていた。
異形の悪魔は、現実の世界で頭を垂れる男を見下ろし、耳障りな声で話しかけてくる。
『ふふふ……ギルバートよ。お主には、すでに相応の力を与えたはずだぞ? そなたの美しきエレオノーラの魂を、その代償としてもらい受けてな……』
ギルバートと呼ばれた男は、驚く風もなく、鏡のなかの怪異を睨み据えた。
「精霊世界の精霊と直接通じる……あなたは、かつて私に、ご自身が精霊世界の住人であるとおっしゃったはずです」
『私が精霊世界の住人であるという言葉に、偽りはない。……ただ、そなたらのいる世界はあまりにも魔力が薄すぎるのだ。真の救済をもたらすには、この私がいる世界と同じ純度の魔力で、この大地を満たす必要がある』
「ならば……!」ギルバートは懇願するように両手を伸ばした。「私に、さらなる力を与えてください! あの力だけでは……まだ無敵と言うには、あまりにも程遠い!」
悪魔は嘲笑うように細い目をさらに細めた。
『それは、お前自身が望んだことであろう? 過去の契約を覆し、さらなる高みを望むというのなら……あのエレオノーラと同等の、美しく高貴な魂が再び必要となるぞ』
「いつか……いつか貴様は私に言ったはずだ! いずれ、あなたと同じ至高の存在へと近づける術を教えると!」
『ふむ……。そなたらの世界には、すでにそれを単身で成し遂げた男が一人いるがな……』
悪魔の言葉に、ギルバートの顔が激しい嫉妬と屈辱に歪んだ。
「く……くくっ! あのような男に先を越されるなど、不快でなりませぬ! 許しがたい!」
『ははははは……! 良いぞ、良いぞギルバート! その肥大化した欲望と憎しみこそが、そなたをより高き頂へと導くであろう!』
「お父さん!!」
その時、聖堂の頑丈な木製の扉が、凄まじい勢いで大きく開け放たれた。
外の眩しい光に照らされ、逆光のなかに一人の精悍な青年が立っている。その手には、白刃の剣が固く握られていた。
ギルバートは驚いた顔をして振り返ったが、その口から出たのは、あまりにも突飛で冷酷な言葉だった。
「エドアルトか……! お前の妹は、まだ戻らぬのか!」
「何を言っているんです、お父さん!」青年――エドアルトは、激しい怒りに肩を震わせながら叫んだ。「それは、あんたの本当の娘ですよ……!」
『ふふふ……。お前は私が憎いか、エドアルト。お前の最愛の母親を、この手で生贄に捧げたこの私がなあ……!』
ギルバートの目が、どす黒い赤色に妖しく光り輝いた。その声の響きは、もはや人間の肉体から発せられるものではなく、複数の怨嗟が重なり合った地獄の底のような残響を伴っていた。
「うおおおああっ!! 俺は! 俺はあっ……! あんたが憎い! 憎くてたまらないのだあぁぁっ!!」
エドアルトの瞳もまた、激情によって真っ赤に染まった。
彼は絶叫しながら、怒りに任せて床を蹴った。そして渾身の力を込め、一歩手前にいた実の父親の胸へと、その白刃を突き立てた。
重い肉声と共に、鋭い刃がギルバートの心臓を深く貫く。
「う、おおお……! ああああ……っ!」
剣を突き立てられたギルバートの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
「え……っ? お、お父さん? そんな、まさか……嘘だろ、そんなあ! お父さん! しっかりしてください!!」
我に返ったエドアルトは、血の海に倒れ込む父親を思わず抱きかかえ、取り乱した声を上げた。
ギルバートは溢れ出る血を口から吐き散らしながら、息も絶え絶えに、しかし狂気に満ちた恍惚の表情で、息子の腕のなかで最後の声を振り絞った。
「ごふっ……! よ、よくやった……エドアルト……。私は、もう大丈夫だ……。見なさい、私はこれより……真に至高の存在となる……」
ギルバートの震える指が、虚空を指さした。
その先では、一辺が数十センチメートルはあるだろうか、立方体の形をした妖しく明滅する『詠唱石』が、重力を無視してくるくると回転しながら、静かに宙に浮かんでいた。その輝きは、この世の物質とは思えないほどに不気味で、純度の高い魔力を放っている。
「お父さぁぁぁん!! お父さあああぁぁぁんっ!!」
息絶えた父の骸を抱きしめたまま、エドアルトは聖堂の床に膝をつき、狂ったように号泣した。
救いのない薄暗い聖堂のなかで、いつまでも、いつまでも、少年のように咽び泣く青年の声だけが、虚しく響き渡っていた。




