第44話:港湾の聖女とランドリエの鍵
魔法教会のとある会議室。
卓上に積み上げられた膨大な古文書の影で、二人の男が深刻な声を交わしていた。
「うーん……そうか。生贄、ねえ……」
執行官のオズワルドは、顎に手を当て、天井を見上げながら何かを深く考えていた。
プリコーグの村から戻ったばかりのバレルが、椅子に深く腰掛けながら腕を組む。
「ああ。少し調べてみたんだが、あいにく俺の苦手な分野でね。どうやら精霊術に伝わる『召喚の門』という術式(呪文)が、すべての鍵を握っているみたいだ」
「ああ、召喚の門か」オズワルドは、淀みなく説明を紡いだ。
「あれは、精霊世界に魔力の薄い泡を作り出し、向こう側の強力な魔力を、この現世に存在できる形へと具現化して引き摺り出す高位呪文だ。……お前が言う魔将軍という強力な魔物は、確かにこちらの世界の法則から直接召喚するのは逆立ちしても無理だろうな」
「さすがだな。精霊術の知識に関しては、相変わらずお前には敵わんよ」
「当たり前だ、誰に向かって言っている」
オズワルドは尊大に胸を張ったが、すぐにその目を鋭く細めた。
「しかし、こちらの世界からは作れなくとも……あっちの世界、つまり『精霊世界』の側からなら、あのレベルの魔物を鋳造することは可能だ。問題は……」
「精霊世界に、一体誰が潜んでいるか、だな」
バレルが重々しく言葉を継ぐ。「それがわからない。だが、そいつが裏でブランゼル王国とヴァルガスの双方に力を与え、糸を引いていることだけは確かだ。……そう言えば、カイエンがレイドールを追っていると聞いたが、何か進展は?」
「あいつの足取りはさっぱりだ。どこにいるか分からん」
オズワルドは肩をすくめて、バレルを見た。
「それより、魔将軍の件はどうなんだ? 確かお前、あのトリスタンとかいう少年のところへ手を貸しに行っていたんだろ?」
「ああ。奴らは今、魔将軍アイゼンに対抗するため、新しい『チャリオット』を探しているところさ」
「ちゃりおっと……? なんだそれは」
「中に乗り込んで、装甲と魔導兵器で戦う車両型の兵器だよ」
「乗り物の兵器か……」オズワルドは記憶を辿るように呟いた。「そう言えば……『ランドリエ』で、そんな感じの鉄の塊を見かけたな」
「本当か!?」
バレルはガタッと椅子を鳴らして身を乗り出した。「どんな代物だ? シャシーは生きているのか!?」
「さあな、詳しくは見ていない。だがバレル、あそこは『イゾルデ』が居ないと中に入ることすらできんぞ?」
「イゾルデ?」
「ああ。以前、魔法教会の調査でランドリエに潜った際、同行してもらったんだ。あいつの特殊な呪文がなければ、あそこは開かん」
二人が次なる手がかりを口にする、ちょうどその頃――。
ところ変わって、遥か南方に位置するヴェネリア王国の港。
かつて黒本党の魔の手に落ち、灰色の絶望に包まれていたその美しい国は、聖輝軍を率いるシファの圧倒的な活躍によって無事に奪還されていた。海からの心地よい風が、かつての活気を取り戻した港へと吹き抜けていく。
「おお、スティングレイ卿。今日も今日とて、なんと美しいドレス姿でおられるか」
「まぁ、ありがとうございます。私などより、また貴国の貿易船がこの港へとたくさん来てくださることを、心から願っておりますのよ?」
「ふふふ、任せておきなさい。……それより、今宵の晩餐会には出席されるのかな?」
「ええ、喜んで。お会いできるのを楽しみにしておりますわ」
シファは外交用の完璧に穏やかな笑顔を浮かべながら、豪奢な宮殿の長い廊下を歩いていた。貴族たちの姿が見えなくなった瞬間、その笑顔がピキリと凍りつく。
一方、宮殿の一室にある執務室。
「失礼します。イゾルデ様、こちらがご指示のあった古い港湾管理法の資料となりますが……」
部下の男が恐る恐る資料を差し出す。
「ありがとう」
イゾルデは冷淡に書類をひったくるように受け取ると、鋭い目で男を睨みつけた。
「……ところで。私が事前に頼んでおいた『船舶検査基準の強化』の書類は? あれ、どうなったのよ」
男は「しまった」という顔をして冷や汗を流した。「あ、あの、それはまだ手をつけておらず……」
「何やってんのよ!!」
イゾルデの容赦のない叱責と鋭い視線が飛ぶ。
「す、すみません……っ!」
「ま、いいわ。さっさとやって頂戴。次はないわよ」
「は、はいっ! 直ちに!」
男は這う這うの体で、大慌てで執務室を飛び出していった。
静かになった部屋で、イゾルデはため息をつき、黙々と次の書類に目を通してペンを走らせる。そのとき、バタンと大きな音を立てて執務室の扉が開いた。
「あーーー、もう! しんどいわ! これならドラゴンの里で、命がけの修行をしてる方が100倍マシだわ!」
きらびやかなドレスを身にまとったシファが、完全に魂の抜けたうんざり顔で入ってくるなり、イゾルデの目の前の椅子にドカリと深く座り込んだ。
イゾルデはペンを走らせる手を止めず、呆れたようにチラリとシファを見た。
「ふふふ。その美しいドレスより、あの血生臭い鋼の鎧が恋しいってわけ?」
「そうね。いっそのこと、さっきの狸じじいどもを剣でぶった切りたいわ」
シファの物騒極まる本音に、イゾルデは思わず吹き出した。
「あははは!」
執務室に、ようやく二人の美しい女性たちの、心からの笑い声が響き渡る。
シファは椅子の背もたれに頭を預け、天井を見上げて微笑んだ。
「……イゾルデ、本当にありがとう。私や聖輝軍の仲間は、こういう政治だの貿易だのの交渉事がさっぱり苦手でね。右も左もわからなかったから、あなたが居てくれて本当に助かったわ」
「いいのよ、気にしないで」
イゾルデはペンを置き、優しく微笑み返した。
「あんたは私の命の恩人だしね。それに、このヴェネリア王国を地獄から奪還できたのは、間違いなくあなたの功績よ」
「あの戦いの頃はね……ただ、目の前の敵を倒すことだけを考えていればよかった」
シファは静かに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。広大な海が見渡せる窓。
「でも、当たり前だけど……国を奪還した『その後』の生活のことも、考えなきゃいけないのよね」
そう言って海を見つめていたシファが、ふと、水平線の彼方に目を留めた。
「え? あれって……」
「ん? どうかしたの、シファ?」
「ほら、イゾルデ、あれ……あの船。見覚えがあるわよね?」
シファが指さした先、きらめく波を掻き分けて港へと滑り込んできたのは、美しい流線形のフォルムを持つ、見事に磨き上げられた帆船だった。
それを見たイゾルデは、驚きに目を見張った後、どこか申し訳なさそうな顔でシファを振り返った。
「……ごめんね、シファ。どうやら、またここを離れることになりそう」
シファは窓辺から振り返り、悪戯っぽく微笑んで首を振った。
「いいのよ。いまは世界中で黒本党だのブランゼル王国だの、面倒ごとが起きているんでしょう? あなたを必要としている人のところへ、行ってあげて」
海に面したヴェネリア王国。かつて死に絶えていたその港には、今やまた多くの貿易船と活気が戻りつつあった。
二人を祝福するように、新時代の到来を告げる心地よい潮風が、窓から執務室へと吹き抜けていった。




