第43話:超越の霊体、生贄の揺り籠
緑豊かな木々がざわめき、穏やかな風が吹き抜けるプリコーグの村。
その平穏な広場に、突如として巨大な影が差した。風を切り裂いて現れたのは、バレルの操る大きな飛空艇だった。昨日プラウデンを発ったバレルは、魔法教会本部へ戻る前に、ある重要な確証を得るため、この村へと立ち寄ったのだ。
ハッチが開き、地上に降り立ったバレルは、迷いのない足取りでプリコーグの長老の家へと入っていった。
「おや……これは珍しい方が。あんたは確か……」
バレルが部屋に足を踏み入れると、先客であった一人の女性が気配もなく振り返った。
紫色の隠密装束に身を包んだその女性は、バレルの姿を認めると、丁寧に深く頭を下げた。
「お久しゅうございます、バレル殿。静寂の里の隠密部隊の頭領、コトネです」
「ああ! そうだった、コトネさんだ。確か、サヤちゃんの友達だったよね? いやあ、こんなところで会うとはな」
バレルが思い出したように声を上げる。コトネは膝をついて畏まりながら、こくりと静かに頷いた。
「おお、バレル……やっと来たか」
家の奥の方から、長い髭を蓄えた長老がゆっくりと顔を出した。
「今日は、何の話でしょうか?」
「――ヴァルガスの話だ」
「え? ヴァルガスの……?」
コトネの目が、驚きにわずかに見開かれる。
長老は腕を組み、重々しく口を開いた。
「そうだ。私もあの滅びた村を出て外の世界で数年を過ごし、精霊術や精霊工学について貪欲に学んできたつもりだ。そこでお前たちの教えが、いかに世界の真理を突いているかを痛感している」
「ええ、長老が熱心に学んでいることは、知っています」バレルは穏やかに頷いた。
「我が村に伝わる霊術や霊工……その根底には、生命だけでなく、無機物を含めた『すべてのものに霊体がある』という教えがある」
「はい、俺もそれをベースに研究を進めていてね。様々な物質に応用可能になってきている。……だが、前に長老は言ったよな? 『霊体だけで現世に存在し続けるのは極めて難しい』と」
「いかにも」長老は目を細めた。
「しかし、物質の霊体であっても、例外的に存在できる状態が二つある。ひとつは、あのツインズが起こすような『憑依』。そしてもうひとつが、『御零球』と呼ばれる、純粋な思考や意思そのものを檻に閉じ込める方法じゃ」
「ああ、そこまでは俺も理解している」バレルは首を傾げた。「だが、そっちじゃない。俺が今知りたいのは、物質ではなく『人間の霊体』についてだ。長老、確かそっちはまだ、詳しくは言ってなかったはずだ」
長老は深く息を吸い、厳しい目をバレルに向けた。
「人間は物質と違い、生きている。意思の力があまりに強すぎるのじゃ。故に、肉体を失って霊体になってもなお、『生きること』を求められる」
「生きることを、求める……?」
「例えば、以前に聞いた『エルム』という少年。あれは複雑な例じゃが、エルムという少年の中に眠る『もう一人のエルムの魂』が、楔となって兄であるアルドの霊体をこの世に繋ぎ止めておる。……では、ヴァルガスの場合はどうじゃ?」
長老の問いに、傍らで控えていたコトネが、低く鋭い声で答えた。
「――黒本から送られる、他者の『生気』ですね」
「その通りじゃ」長老は深く頷いた。「おそらくヴァルガスは、肉体が滅びる直前、現世の何か……強力な詠唱石のような物質に自らの霊体を憑依させた。そこに、黒本を通じて他者から無理やり奪い取った『生気』を注ぎ込み続けることで、肉体なき意識をこの世に無理やり残していると考えられる」
「なんと……!? では、やはり風の噂は真実……ヴァルガスは今も死なずに生きていると?」
コトネが衝撃を隠せない様子で長老の目を見つめる。
長老は微動だにせず、断言した。
「間違いない……奴は、生きている」
「……そうですか。わかりました。里へ戻り、至急報告せねばなりません。では、失礼いたします」
紫の装束を翻したコトネは、長老に対して一礼すると、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、影となって暗闇の中へかき消えてしまった。
部屋に二人きりになると、長老はさらに声を潜め、バレルを凝視した。
「でな、バレル……ここからが本題じゃ。お前たちが追っている、ブランゼル王国のことについてなんじゃが」
「ええ……。何か、あの国について分かったんですか、長老?」
バレルが身を乗り出す。
「生気を送り、霊体を維持する方法は、黒本による搾取だけではない。……直接、『生贄』を捧げることで、膨大な生気を一括して送る方法もあるのじゃ」
「そんな……!?」
バレルの顔が驚愕に染まる。ブランゼル王国が各地で繰り返している無慈悲な虐殺。それが単なる領土拡大や脅しではなく、計画的な「生気の回収」だったというのか。
「私もこれは、まだ完全に理解しきれてはおらんのだがな……」長老は天を仰ぐように目を閉じ、言葉を絞り出した。
「生気を送る対象……この現世ではなく、『精霊世界でのみ存在できる霊体』があるようなのじゃ」
「え!? それは……どういうことです?」
「この世の物理法則には存在を許されない異形、あるいは超越した霊体が、稀に精霊世界という高位次元に存在することがある。しかし、その超越した霊体がその場に形を維持するためには、『人間の生気』が必要なのだという……。それが、神なのか悪魔なのか、何者であるのかは私にはわからぬ」
腕を組んだ長老のシワ深い表情が、かつてないほど険しくなる。
「しかし……これだけは確かじゃ。その精霊世界に存在する『超越した霊体』……それこそが、ヴァルガスの黒本に悍ましき魔物の力を与え、そして、ブランゼル王国に現代の技術を凌駕する『7人の魔将軍』を与えた元凶に他ならん」
「それは……確かなのですか、長老!?」
バレルは長老の目を真っ直ぐに見据えた。
「おそらく、少なくとも私はそう確信している。これが、最近の調査で分かってきた世界の歪みじゃ。魔法教会へ戻るお前には、どうしても伝えておかなければいけないと思ってな……」
バレルは視線を床へと落とし、深く腕組みをしたまま、難しい顔で沈黙した。
(精霊世界に潜む、超越した霊体……。奴がブランゼルと黒本党の双方に力を与え、世界を『生贄の揺り籠』にしようとしているのか……?)
あまりに壮大で、あまりに邪悪な真実に、天才バレルの頭脳をしても、思考を即座に整理するのは困難だった。
窓の外には、どこまでも美しく緑豊かな風がそよぐプリコーグの村が広がっている。しかし、そこで暮らす人々の知らない世界の断絶から、重苦しい破滅の空気が、そこはかとなく世界へと漂い始めていた。




