第15話:旅立ちの装備と、南への道標
その日は朝早くから、店をあげての大がかりな荷物の運び出しが行われていた。
店の小物を手際よく整理する者、運び出す荷物を仕分けする者、大きな箱にまとめて収納していく者――。
『出会いと別れの酒場』の従業員たちはそれぞれが手分けをして、てきぱきと見事な手際で作業をこなしていた。
トリスタンもまた、その喧騒の中で力になろうと動いていた。二階から、ずっしりと重い大きな木箱を抱えて階段を降りてくる。
「うわわわっ! うわっ、とと……!」
すぐ前を歩いていた店の男が、抱えた箱の重さにバランスを崩し、階段の途中で派手によろめいた。
「危ないっ!」
トリスタンは咄嗟に、右半身の【下の右手】を力強く伸ばし、男の背中をがっしりと支えた。
上の右手と左手で自分の大きな木箱をしっかりとホールドしたまま、空いているもう一本の右手で男を完璧に受け止めたのだ。
「おう……ありがとよ。助かった、命拾いしたぜ」
男が冷や汗を拭いながら息を吐く。
「大丈夫? 手を放すよ?」
「ああ、もう平気だ。ありがとな!」
トリスタンの三本の腕という異形が、ここでは純粋に頼もしい力として機能していた。階段を降りた荷物は、外に横付けされた大型の馬車へと次々に積み込まれていく。
そんな様子を、ミランダはカウンターで何冊もの帳簿をチェックしながら眺めていた。その傍らで、先ほどのいかつい男が不思議そうに首を傾げながら話しかける。
「しかし……姉御。シーラスはブランゼル王国に降伏したんですよね? 奴隷と金品と食料をそっくり差し出すって。……そしたら、あの魔将軍からの『死の宣告』は免れるわけじゃないですか」
男の言葉に、ミランダはパラリと帳簿をめくり、呆れたような視線を向けた。
「あんた、何もわかってないわね……。どのみち、ブランゼル王国の犬に成り下がったこの街じゃ、これから先まともな商売すらできなくなるわ。損切りするなら早めが正解。傷が浅いうちに次へ行くのよ」
「へえ、そういうもんすかね?」
「そういうものよ」
ミランダは冷徹に言い切ると、忙しそうに次の帳簿へと鋭い目を走らせた。
そこへ、ようやく箱をすべて運び終えたトリスタンが通りがかる。
「あ! トリスタン!」
ミランダがペンを止め、彼を呼び止めた。
「何をしてるの?」
「え? あ、次の荷物を取りに行こうと思って……」
「荷運びはもういいわよ。こっちに来なさい」
「あ、はい」
トリスタンはミランダの後に付いて、店舗の奥にある私室へと入っていった。
ミランダは大きなクロークの扉を静かに開けた。そこには、真新しい革製の鎧と脛当て、そして一振りのショートソードとナイフが美しく吊るされていた。
「着てみて」
手渡された革の鎧を、トリスタンは戸惑いながらも身につけてみる。
驚いたことに、その鎧は彼の身体の構造を完全に理解して作られていた。右肩の部分がノースリーブのように大きく開かれており、二本の右腕を一切邪魔することなく、驚くほど自在に動かすことができた。
「どう? 特注で作らせたんだけど」
ミランダが満足そうに尋ねる。
「うん、ピッタリだよ! ありがとう、ミランダさん」
トリスタンが顔をほころばせると、ミランダは「ああ、それと……」と言って、さらに部屋の奥深くへと入っていった。
残されたトリスタンは、クロークに吊るされたショートソードをそっと手に取ってみた。
慎重に、数インチだけ刃を引き出してみる。シャキイン、と硬質な金属音が響き、月光のような鋭い輝きを放つ極上の刃が現れた。抜群の切れ味だ。トリスタンは刃を鞘に納め、そのショートソードを腰のホルスターへと確実に装着した。
「もう、これが持てる年頃ね」
奥から戻ってきたミランダの手には、一振りのロングソードが握られていた。
差し出されたその長剣を、トリスタンは両手で受け取る。
「これは……」
ずっしりとした重み。そして、見覚えのある意匠。それは、幼い頃にいつも見ていた、母カトリーナが愛用していたものと全く同じ型のロングソードだった。
「ありがとう……ミランダさん。もう、本当に何から何まで……」
「いいのよ。はい、これも」
ミランダは間髪入れず、ずっしりと重い革袋をトリスタンの手に握らせた。金貨の擦れ合う音が響く。
「餞よ。持っていきなさい」
「もう、何と言ったらいいのか……。この御恩は、一生忘れませんから」
胸が詰まり、何度も頭を下げるトリスタンに、ミランダは「別にいいわよ」とそっけなく笑った。
しかし、次の瞬間、彼女はふっと表情を引き締め、吸い込まれそうなほど真剣な眼差しをトリスタンに向けた。
「でも、ひとつだけ約束して」
「はい……?」
「次に会う時まで、絶対に死なないこと。いいわね?」
ミランダの言葉に宿る、母のような、そして親友の忘れ形見を想う痛切な願い。トリスタンは黙って、深く、強く頷いた。
「で? これからフリントを探しに行くんだっけ?」
「ええ。彼と、いつか本当のチームになるって約束しましたから」
「そう。でもね、その前に……会ってほしい人がいるの」
「え? 誰ですか?」
トリスタンが小首を傾げると、ミランダは少し視線を落とし、躊躇うように呟いた。
「カトリーナの昔の恋人よ。……もしかして、あなたの……ううん、何でもないわ」
「――っ」
トリスタンは思わず息を呑み、絶句した。
自分が今この世界に存在しているということは、母カトリーナに、その対象となる相手がいたということだ。今まで考えもしなかった、しかし確実に存在するはずの『父親』の影。
「そ、その人は……今、どこにいるんですか!?」
トリスタンは衝動的に、ミランダに詰め寄るようにして聞いた。
「クリストフよ」
ミランダはその名前を、大切そうに口にした。
「クリストフ……」
「ここから南に行ったところにある、ブラントンっていう港町にいるはずよ」
「あ、ありがとうございます……!」
混乱しつつも頭を下げるトリスタンを見て、ミランダは何かを思い出したようにポンと手を打った。
「あ、ちょっと待って」
「まだ、何か……?」
ミランダは部屋の隅から、仕立ての良い大きめの布を手に持って戻ってきた。
「はい、これを付けて」
それは、深みのある色合いの大きなマントだった。ミランダはそれをトリスタンの肩へと優しく羽織らせる。
「あなたの二本の右手は目立つからね。街を出るまでは、これで隠していきなさい」
マントを深く羽織ると、右肩の部分が二本の腕のせいでこんもりと不自然に盛り上がって見えたが、一見すれば荷物を背負っているかのようにカモフラージュすることができた。ミランダの細やかな配慮が、トリスタンの胸に沁みる。
「それでは……ミランダさん。何から何まで、本当にありがとうございました」
「いいのよ。こっちこそ、一緒に次の店に連れて行ってあげられなくてごめんね」
「いえ! そんな……!」
「元気でね、トリスタン」
ミランダは、すべてを包み込むような優しい微笑みを浮かべた。
「ミランダさんも、お元気で」
もう一度、深く頭を下げた後、トリスタンは静かに部屋を後にした。
引っ越し作業に追われる『出会いと別れの酒場』の喧騒を背に受けながら、トリスタンは一足先に、シーラスの街の外へと向かって歩き始めた。腰に二振りの剣を帯び、南の港町ブラントン、そしてまだ見ぬ男「クリストフ」を目指して。




