第14話:出会いと別れの酒場
トリスタンとフリントの二人は、ミランダの酒場の二階にある部屋に泊めてもらうことになった。
用意された部屋には、これまでの地獄のような生活からは想像もつかないほど大きなベッドがふたつ、静かに佇んでいた。二人は泥と血に汚れたボロボロの衣服をようやく脱ぎ捨て、用意されていた上等な仕立ての服と寝間着に袖を通した。
トリスタンのために用意された寝間着は、少し変わった形をしていた。右肩の部分がノースリーブのようにはだけた、特別な細工が施されていたのだ。
「ごめんねぇ、急ごしらえだったから……」
ミランダは少しバツの悪そうな表情を浮かべたが、トリスタンは首を振った。
右肩の部分を切り開き、別の適当な布をパッチワークのように丁寧に縫い合わせたその寝間着は、ミランダがこの短い時間の間に、トリスタンの「二本の右腕」が窮屈にならないようにと心を込めて直してくれたものだった。
「そんなことありません。本当に、心から感謝します」
トリスタンが真っ直ぐな目で伝えると、ミランダは嬉しそうに目を細めた。
その後、二人は大きな風呂へと案内された。
湯船から溢れる湯気に包まれながら、体に溜まりきった頑固な垢を無我夢中で洗い流していく。採掘場の酷い匂いが一瞬立ち込めたが、それもすぐに大量のお湯で洗い流され、さっぱりとした清潔な肌が露わになった。
「ふぅ……極楽だなぁ……」
「生きててよかったな、トリスタン」
二人は並んで湯船に深く浸かり、手足を伸ばして、旅の疲れを芯から癒やした。
風呂から上がると寝間着に着替え、ふかふかの部屋へと戻る。
もう長いこと忘れていた、身体を柔らかく受け止めるマットレスの弾力。肌触りの良い清潔なシーツと、温かい毛布。二人はベッドに潜り込むと、どちらからともなく一瞬で眠りに落ち、泥のように深い眠りへと沈んでいった。
◇
静かに夜が更け、客たちの喧騒も遠のいて店が閉まり、世界が寝静まった頃。
トリスタンは、部屋を通り抜ける微かな風の気配に、ふと目を覚ました。
寝返りを打ち、ふと目をやると、月明かりが差し込む窓辺に、一人の少年が立っていた。窓を開け放ち、じっと夜空を眺めているフリントの背中が見える。
「どうしたんだい? 眠れないのか?」
トリスタンは眠い目をこすりながらベッドから起き上がり、声をかけた。
「ううん。そういうんじゃないんだけどさ……」
フリントは振り返らず、夜の街を見つめたまま静かに呟いた。
「ん? どういうこと?」
「俺もさ……魔将軍に故郷を襲われて、あの採掘場に奴隷として連れてこられたんだ」
その言葉に、トリスタンの眠気が一気に吹き飛んだ。そういえば、地獄のような日々の中で、お互いの過去をゆっくり話す余裕など一度もなかった。フリントが自らの身の上を語るのは、これが初めてだった。
トリスタンはフリントの背中に近づき、興味深そうに尋ねた。
「それで? 君はどういうところで育ったの?」
「精霊工学が盛んな町さ。世界でも有数のね」
フリントは誇らしげに、しかしどこか寂しげに微笑んだ。
「こう言っちゃ鼻につくかもしれないけど、その技術力の高さじゃ、世界でもトップクラスだったんじゃないかな。……だけど、そこにあの魔将軍が現れた」
フリントの肩が、微かに震える。
「町のみんなで、ありとあらゆる最新の武器を使って抵抗した。でも、すべて無力化されたんだ。もうおしまいだ、誰もが絶望したその時……あの魔将軍に、明確な傷を負わせた兵器があったんだ」
「えっ……!?」
トリスタンは息を呑んだ。あの圧倒的で、絶望そのもののような魔将軍にダメージを与えたというのか。
「あの魔将軍に傷を……? それ、一体どういう武器なんだい?」
「武器っていうより……巨大な移動兵器だ。名を【チャリオット】って言う」
「チャリオット……」
初めて耳にするその響きを、トリスタンは反芻するように呟く。
「だけど、あの時はまだ未完成だったんだ。結局、チャリオットは破壊され、町の至宝だった古の精霊工学の技術書――通称『青本』も、奴らに奪われちまった」
フリントは悔しさに唇を強く噛み締め、両拳を白くなるほど握りしめた。
それを見たトリスタンは、胸を痛めながら狼狽えた。
「じゃ、じゃあ……もうチャリオットは作れないのか?」
「そんなことはないさ」
フリントはくるりと振り返ると、月光の中でその目を強く輝かせ、きっぱりと言い切った。そして、自身のこめかみを指先でトントンと叩いてみせる。
「俺はチャリオットの開発チームに参加してたんだ。チャリオットの設計、回路、構造……そのすべてが、この頭の中に叩き込まれてる」
フリントの天才技術者としての片鱗を目の当たりにし、トリスタンは興奮で目を輝かせた。
「それじゃ……そうだ! 僕も一緒に行くよ! チャリオットをもう一度、今度こそ完成させる方法を一緒に探しに行こう!」
トリスタンは歓喜に満ちて提案した。しかし、フリントは喜ぶ風でもなく、ただ静かに首を振った。
「だめだ」
「ええっ!? なんでさ!?」
「……俺、ずっと思ってたんだ。あの、荒野で別れた男の言葉を」
フリントの声は、どこまでも冷静で、そして固い決意に満ちていた。
「あの人?」
「ああ。『ここからは自分の足で進むべきだ』って言っただろ。俺たちは無理やり奴隷として連れて行かれて、あの最悪な採掘場で出会った。それはさ……運命の悪戯による『偽りの出会い』なんだよ。そこを脱出した今、俺たちは誰かに依存するんじゃなく、それぞれが自分の足で、自分の道を進むべきだと思うんだ」
部屋を沈黙が満たす。フリントはトリスタンの目を真っ直ぐに見据えた。
「ここで、お別れだ。トリスタン」
「そんな……」
「だけど、俺は絶対にお前を忘れない」
フリントは一歩歩み寄り、トリスタンの肩に手を置いた。
「お前も、俺も、それぞれの目的のために歩き出す。共に本当の『自由』を掴み取って、そしてまたいつか出会ったとき……その時こそ、俺たちは自分の意志で結ばれた、本当の『チーム』になれる気がするんだ」
トリスタンは言葉を失い、ただ目の前の親友を見つめることしかできなかった。あまりにも身勝手で、しかしあまりにも気高いその願い。
「すまない……こんな我儘を言って。……気が済むまで、殴ってくれて構わない」
フリントが苦しげに目を伏せる。トリスタンは、その表情を見て、ふっと優しく微笑んだ。
「お前を殴れるわけないじゃないか。お前は僕の命の恩人だ、フリント。……そして、僕のたった一人の、最高の親友だ」
二人の間に、もう言葉は必要なかった。お互いに何か、言葉にできない熱い約束を心の中で悟ったかのように、二人は再びそれぞれのベッドへと潜り込んだ。今度は、明日へ向かうための深く静かな眠りが、二人を包み込んだ。
◇
翌朝、清々しい朝の光が差し込む店の前に、トリスタン、フリント、そしてミランダの三人が立っていた。
「ミランダさん……突然押しかけてお世話になったのに、こんなに早く出ていくことになってしまって、本当に申し訳ありません。この御恩は、一生忘れません」
フリントはそう言うと、深々と頭を下げた。
「頭を上げなさいよ」
ミランダの声にフリントが顔を上げると、彼女の細い手には、ひとつの革袋が握られていた。
「ほら、持っていきな」
ミランダから差し出された袋をフリントが受け取ると、中からジャラリと重々しい金属の音が響いた。ずっしりとしたその重みは、紛れもなく大量の金貨だった。
「こ、こんな……! 見ず知らずの、ただの脱走奴隷の俺のために、どうしてですか……?」
フリントは驚愕し、目を丸くして革袋とミランダの顔を何度も見比べた。
「見ず知らずじゃないわよ」
ミランダは腕を組み、ふっと悪戯っぽく笑ってみせた。
「あなたは、カトリーナの息子の親友。なら、私の身内も同然よ。これはただの餞別。四の五の言わずに持っていきなさい」
「あ……ありがとうございます……!」
フリントは胸を熱くし、再度、深く深く頭を下げた。
ミランダは腕組みをしたまま、旅立つ少年へ優しく、そして誇らしげな微笑みを向ける。
「覚えておきなさい。この店の名前はね、【出会いと別れの酒場】って言うのよ。いつか…あんたが、こんな場所もあったなぁって、そう思い出してくれればそれでいいわ」
フリントはその言葉に力強く頷いた。その顔には、迷いは一切なく、未来を見据える決意に満ちた表情が浮かんでいた。
「じゃあ……行くよ」
フリントはくるりと背を向けると、活気あふれる通りの向こうへと歩き始めた。
「フリント!」
トリスタンの叫び声が、朝の通りに響いた。
前を歩く親友の背中に向けて、トリスタンは全力を込めて言葉を紡ぐ。
「これは別れじゃない! 絶対に、僕はまた君を見つけるから! 何があっても、必ず会いに行くから!!」
その言葉に、フリントは歩みを止めず、片手を大きく上げて応えた。
「そうだな! むしろ、俺の方が先にお前を見つけちまうかもな! その時まで――元気でいろよ!」
振り返ることのないフリントの足取りは、どこまでも確かで、力強かった。
通りの向こう、光の中へと溶けていく親友の背中を、トリスタンはいつまでも見つめ続けていた。




