第111話:過酷な修行の始まり
深い霧に覆われた、静寂の里。
各地から腕に覚えのある若者たちがこの地に集い、日々、己を鍛えるための修行にいそしんでいた。
今朝もまた、厳しい鍛錬が始まっている。もはや道とも呼べないような、断崖絶壁の如き悪路を若者たちが登ってゆく。その過酷なロードワークの群れの中に、異形とも言える「右腕が二本ある少年」、トリスタンの姿もあった。
「も、もう……無理だ……」
荒い息を吐き出しながら、トリスタンはその場に崩れ落ちるように道端へしゃがみ込んでしまった。肺が焼き切れるように熱く、足は鉛のように重い。
ふと顔を上げると、自分よりも年下と思われる若者たちが、平然とした顔でその過酷な崖道を駆け抜けてゆく。圧倒的な実力差と境遇の違いに、トリスタンはただただ唖然とするばかりだった。
「大丈夫かい?」
途方に暮れていたトリスタンの隣に、同い年くらいの若者がひょいと腰を下ろした。
「いや、体がしんどくてね……不甲斐なくて、ごめん」
トリスタンは情けなさに肩を落とし、苦笑いを浮かべた。
「そんなことないよ」
「え?」
「俺たちも、ギリギリでやってるんだ」
「そ、そうなの? とてもそうは見えないけど……」
自分以外の誰もが余裕を持って走っているように見えていたトリスタンは、首をかしげる。
「ここではね、常に限界ギリギリまでやるんだ。だから……ギリギリの状態で動くことに慣れてる、と言うべきかな」
若者は爽やかに額の汗を拭いながら答えた。
「ここに来て長いの?」
トリスタンが尋ねると、若者はにっこりと微笑んだ。
「うん、もう数年になるかな。俺もさ、地元じゃそれなりに腕に自信があってね。この里の噂を聞きつけてやってきたんだけど……最初の頃は全然ついていけなくて、君と同じようにへばってばかりだったよ」
「え? そうだったんだ?」
トリスタンは改めて若者の全身に目を向けた。見たところ特別に筋骨隆々というわけでもない。
「見た目はそんなに強そうに見えないのに……ものすごく体力があるんだね」
「ふふふ……体力だけで乗り越えようとしてたら、ここの修行にはとてもついていけないよ?」
若者は少し不敵な笑みを浮かべた。
「え? でも、こんな過酷な修行、体力がなきゃ無理でしょ?」
不思議そうに見つめるトリスタンに対し、若者は静かに首を振った。
「君は『体の使い方』だけを気にしている。だから疲れて無理になるんだ」
「体の使い方じゃなかったら……なんなの?」
「『心の使い方』さ」
「心の使い方……?」
「そう。心の使い方のほうだ」
若者はゆっくりと顔を上げ、周りの景色に目を向けた。
「木々のざわめき、道に飛び出た木の根、伸びる草、切り立った岩、土や石ころ……」
若者の視線に合わせて、トリスタンも周囲の景色を仰ぎ見る。深い霧の合間に広がる豊かな自然がそこにあった。
「体の使い方だけに気を取られていると、人は自分の内側のことしか考えなくなるんだ。『疲れないように』『楽なように』と自分を庇うことばかり考えて、結局は疲労のことばかり気にするようになる。だから余計に疲れるのさ」
「……」
「だからね、外に目を向けるんだ。まわりを見るんだよ。俺たちは、この木々に生かされている。この石に生かされている。ここで修行させてもらっているんだ」
若者の声は、深く静かにトリスタンの心へ染み込んでゆく。
「ここの修行は、心の使い方を重視する。まわりを見て、まわりに合わせ、自分がどう生かされているかを知るんだ」
「自分が、どう生かされているか……?」
トリスタンは若者の横顔をじっと見つめた。
「そうだ。自分の肉体がギリギリの状態であっても、まわりにどう生かされているかを知れば、自然とまわりが自分を生かしてくれる動きになる。心が体を動かしてくれるようになるんだよ」
「まわりが生かしてくれる動き……」
トリスタンはその言葉を噛みしめるように反芻した。
「そう、それが『心の使い方』さ。まわりが生かしてくれるように生きる。この世界の一部として、ちゃんとね。それが、ちゃんと生きてるってことなんだ」
「ちゃんと生きる……そうか! それが、ちゃんと生きるってことなんだ!」
胸の奥のつかえが取れたように、トリスタンの瞳がぱっと輝きを帯びた。
「そうだ。ここに来たら、強くなったり凄い技を覚えることよりもまず、『ちゃんと生きること』を覚える。それが全ての基本なんだよ」
そう言うと、若者はすっと立ち上がり、トリスタンに向かって右手を差し伸べた。
トリスタンは少し躊躇いながらも、上側にある方の右手でその手を力強く握り返し、立ち上がった。
「あの……ごめん。僕のこの右手……気にならないかい?」
思い切って尋ねるトリスタンに、若者は柔らかく微笑んだ。
「気にならないよ」
「え……」
「ここに来てから今日までに、一人でもその二本の右腕を奇異な目で見る者がいたかい?」
言われてみれば、この里に来てから誰一人として自分の腕を気味悪がったり、差別的な視線を向けたりする者はいなかった。トリスタンは黙って首を横に振る。
「そうだろう? 俺は君に生かされている。だから、俺も君を生かす。ここにいる人たちはみんな、そうやって助け合いながら修行を積んでいくのさ」
「……!」
「じゃ、もう大丈夫だね」
トリスタンが大きく頷くのを確認すると、若者は爽やかな笑みを残し、再びその道を颯爽と駆け出して行った。
「よしっ!」
トリスタンは威勢のいい掛け声とともに両頬を強く叩いた。
身体はまだ限界ギリギリで、悲鳴を上げている。だが、心には確かな温もりと光が宿っていた。
トリスタンは全身の力を振り絞り、再び全力で走り出した。
凄まじく過酷な環境の中で、ギリギリの体力で、それでもなお前を向く。
その少年の瞳から、輝きが失われることはもうなかった。




