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第61話:第九条、二百年ぶりの発動

 オズヴァルト書記長は、その紙を受け取りました。

 規則どおり、受理印を確かめ、規則どおり、声に出して読み上げました。


「本日付、提出文書。……シュタイン条約本体、第九条に基づく議題提出」


 議場の空気が、変わりました。


「第九条。『加盟国の三分の一以上の連署をもって、書記局を経ずに議題を総会へ直接提出することができる』」


 レナルト侯が椅子を鳴らして立ち上がりました。


「第九条など、死文だ! 二百年、一度も使われておらん!」

「ええ」


 私はうなずきました。


「使われておりませんわ。ですが、削られてもおりませんの」


 条約本体は、二百年一度も改正されておりません。改正には全加盟国の批准が要るからですわ。

 だから第九条は、埃をかぶったまま、ずっとそこにございました。


「そして侯。第九条は本体の条文ですわ。本体の批准書は、十二通そろっております。……こちらは、きちんと発効しておりますのよ」


 レナルト侯の顔が、赤から白へ変わりました。


「連署は、何か国だ」

「三分の一。十二の三分の一ですから、四か国ですわ」


 オズヴァルトが、紙の下部へ目を落としました。

 そこには四つの署名がございます。


 彼は読み上げました。


「リースフェルト公国 女公イルゼ」


 一番上でした。

 私は、そこだけは譲らないと決めておりました。二百年でいちばん長く戦った人の名を、いちばん上に置くのだと。


「ケルニ王国代表」

「サヴァル諸島連合代表」

「アウグスト帝国代表 セシリア・フォン・クロイツ」


 四つ。ちょうど、四つ。


 ケルニもサヴァルも、ヴァルター様の綴りに名の出ていた国でございます。かつて名簿の閲覧を止められ、かつて配分の改定を提起して日程に載せてもらえなかった国。

 昨夜、イルゼ様が一人ずつ訪ねて回りました。私ではなく、彼女が。


(三年ぶん、負け続けた人の言葉でなければ、届かない相手でしたもの)


「議題名を」


 書記長の声が、わずかに掠れておりました。


「読み上げますわ」


 私は円卓の中央に立ち、はっきりと申しました。


「『附属書第七の未発効の確認、および分担金配分と議席配分の全面再設計について』」


 そして、二つ目。


「『書記局の繰越金――金貨五百六十万枚の帰属と返還について』」


 議場が、爆ぜたように騒がしくなりました。

 五百六十万枚。その数字を、この場で初めて聞いた代表がほとんどでございます。


「な……五百六十万だと!?」

「我が国の国庫の三倍だぞ!」

「書記長! 説明を!」


 十の椅子から、いっせいに声が飛びました。

 レナルト侯が何か叫びましたが、もう誰も聞いておりません。


 私は、その騒ぎの中でただ一人、静かなままの男を見ておりました。


 オズヴァルト書記長。

 彼は紙を持ったまま、円卓を見渡しておりました。二百年、彼と彼の父と祖父が管理してきた十二の椅子を。


「……議長」


 彼の声は、騒がしさの中でも不思議とよく通りました。


「第九条による直接提出は、書記長の裁量が及びません。休会の宣言に先立ち、本議題は議事日程に登載されます」


 自分で、自分の権限が届かないと告げたのです。


 私は一礼いたしました。


「ありがとうございます、書記長」

「……礼を言われる筋合いはございません」

「いいえ。あなたは今、規則どおりになさいました」


 私は微笑みました。


「二百年、あなたが守ってきたのは、たぶんそれですわ」


 オズヴァルトは、何も答えませんでした。

 ただ、傍聴席の隅で、白髪の老人が両手で顔を覆っているのが見えました。

 ヴァルター様でございます。四十二年、書き続けた方の肩が、静かに震えておりました。


「セシリア様」


 イルゼ様が、隣に立っておりました。埃だらけだった指は、今日はきちんと洗われております。


「わたしの名前、一番上でした」

「ええ。当然ですわ」


 私は彼女の手を取りました。


「三年ぶんの目録を積み上げたのは、あなたですもの」

二百年ぶりに、死んだ条文が目を覚ましましたわ。ありがとうございました!


死文だった第九条。二百年一度も使われず、けれど削られてもいなかった条文ですわ。改正には全加盟国の批准が要る――皮肉なことに、この機構の硬直さが、逆転の鍵を守ってくれていたのです。


そして今回いちばん書きたかったのが、四つの署名の並び順でした。一番上はイルゼ。ケルニとサヴァルを説得して回ったのも、セシリアではなく彼女です。三年間負け続けた人の言葉でなければ、同じように負け続けた国には届きませんもの。


書記長が自分の口で「私の裁量は及びません」と告げる場面も、彼らしい終わり方でしたわね。彼は金のために腐ったのではなく、機構を守るために腐った男ですから、規則が届かないと分かった瞬間、規則どおりに振る舞うのです。


そして傍聴席で顔を覆うヴァルター。四十二年、誰にも読まれない綴りを書き続けた人の涙ですわ。


次回、第62話「五百六十万枚の繰越金」。

いよいよ金庫を開けますの。……ざまぁの時間ですわ。


もし「一番上がイルゼの名前」にじんとしましたら、ブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をお願いいたしますわ。皆様の応援が、二百年ぶりの議題を議場へ押し上げますの!

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