第60話:手続きによる反撃
紙片が床に落ちきるより先に、オズヴァルト書記長は口を開いておりました。
「規則第七条。議場控えの毀損は、議場侮辱にあたります」
声を荒らげてはおりません。まるで天気の話をするような調子でした。
「規則第七条二項。議場侮辱を行った代表は、当該会期の議席を停止されます」
議場が、ざわりと揺れました。
「書記長」
私は紙片の中に立ったまま、静かに応じました。
「効力のない紙を破ることが、なぜ侮辱に」
「効力の有無は関係ございません。第七条は"議場控えの毀損"を禁じております。中身ではなく、物としての控えを」
……お見事。
私は内心で拍手をいたしました。
(規則は、私の言い分を一言も否定しないのですわ。ただ、別の入口から入ってくる)
「では、議席停止の決定はどなたが」
「議長です。ただし議長は、書記長の意見を徴します」
「その議長は」
「本会期は、ヴェルダン王国」
円卓の向こうで、レナルト侯が満足そうに髭をなでました。
「異議なし。停止が妥当でしょうな」
円卓の外で、衣擦れの音がいたしました。
振り向かずとも分かります。陛下が、半歩、前へ出られたのです。
私は背中で息を吸い、指先だけを小さく振りました。
まだ、ですわ。
衣擦れの音が、止まりました。
あの方は、それきり動かれませんでした。この議場でいちばん忍耐を強いられているのは、たぶん、剣を抜けない皇帝でございます。
あっという間でした。
破った直後の、いちばん人の心が動いた瞬間に、私の口を塞ぐ。それだけで足ります。
私が議席を失えば、附属書の話は「停止された代表の主張」になります。誰も引き継げません。
「加えて」
書記長が続けました。
「附属書第七が未発効であるならば、総議席十二の根拠も失われます。よって本会期は、議席数の確定まで一切の議事を停止し、休会とすべきです」
――ああ。
私は、思わず息を呑みました。
(そう来ますのね)
私が示した事実を、彼は否定いたしません。認めたうえで、それを使うのです。
議席の根拠がないなら、議事はできない。議事ができないなら、何も決まらない。何も決まらないまま休会すれば、来年もまた同じ日程が組まれる。
二百年、そうやって回してきたのでしょう。
「休会中、機構の運営は」
「条約本体第四十一条。書記局が繰越金をもって継続いたします」
まあ。
止めても、あの方の金庫だけは回るのですわ。
「セシリア様!」
傍聴席から、イルゼ様の声がいたしました。彼女は立ち上がり、こちらへ来ようとして、衛士に止められております。
私は彼女に、小さく首を振りました。まだ、ここではありません。
「書記長。一つだけ、よろしくて」
「どうぞ」
「議席停止も休会も、私は争いません」
議場が、ざわめきました。レナルト侯が眉を上げます。
「賢明なご判断ですな」
「ええ。争えば、あと三年かかりますもの」
私は微笑みました。三年。イルゼ様が失った時間と、同じ長さです。
「ですから、確認だけさせてくださいまし。休会に入るのは、いつからですの」
「議長の宣言をもって、直ちに」
「宣言の前に、まだ処理すべき議事は残っておりますかしら」
オズヴァルトの動きが、初めて止まりました。
彼は答えを知っていたのだと思います。
規則上、議長の休会宣言の前に、書記局が処理しなければならない事務が一つだけございます。
「……本日付で提出された文書の、受理と読み上げでございます」
「ありがとうございます」
私は、深く一礼いたしました。
そして顔を上げ、傍聴席のイルゼ様へ手を差し伸べました。
「イルゼ様。お預かりのもの、書記長へ」
イルゼ様が衛士の腕をすり抜け、円卓へ駆けてまいりました。
その手に握られていたのは、一枚の紙。
朝いちばんに、受付で正式に受理印を押してもらった紙でございます。
「レナルト侯。先ほどのご発言、覚えておいでかしら」
私は振り返りました。
「"賢明なご判断ですな"――ええ、そのとおりですわ。私、争いませんの」
紙をオズヴァルトへ差し出しながら、私は静かに申しました。
「議席が一つでも、この提出には足りますもの」
今回は、こちらが追い詰められる回でしたわ。お読みくださりありがとうございます!
破ったあとが、いちばん危ない。第二部のバルタザールなら激昂して自滅してくれましたが、オズヴァルトは違いますわ。「効力の有無は関係ございません。第七条は物としての控えの毀損を禁じております」――規則は、彼女の言い分を一言も否定しないまま、別の入口から入ってくるのです。
そして彼の本当の一手は、議席停止ではなく休会でした。セシリアの主張を否定せず、認めたうえで「では議事はできませんね」と使う。何も決まらないまま来年へ送る。二百年、この機構はそうやって回ってきたのですわ。
そんな中でセシリアが選んだのが「争わない」。争えば三年かかる。イルゼが失った三年と同じ長さです。だから彼女は、休会宣言の前に必ず処理される一つの事務――本日付で提出された文書の受理と読み上げ――だけを取りに行きました。
朝いちばんに受理印を押してもらっていた、というのが今回の仕込みですの。
次回、第61話「第九条、二百年ぶりの発動」。
その紙に何が書いてあったのか。そして、そこに並ぶ四つの署名。
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