第59話:皇后、附属書を破り捨てる
総会、当日。
白亜の議場、十二の椅子のうち十が埋まりました。東側の二脚は、今年も空席のままです。東方の海洋二か国は、もう二十年、代表を送ってきておりません。
円卓の中央には、儀礼の台がございます。その上に、革表紙の一冊。議場控えのシュタイン条約で、毎年の開会で朗読される、公式の写しですわ。
「第一号議案。アウグスト帝国の会計公開政策が、大陸の秩序に及ぼす影響について」
オズヴァルト書記長が、抑揚なく読み上げました。
正面の席から、豊かな口髭の男が立ち上がります。ヴェルダン王国特使、レナルト侯爵。
「秩序とは信頼であります。帝国が自国の会計を公開するのはご自由。しかしそれを大陸に広める行為は、各国の内政への干渉に等しい」
なるほど。上手な言い方ですこと。
「わが国は、帝国に対し会計公開政策の停止を求める決議を提案いたします」
賛同の声が上がりました。私は数えました。四つ。ヴェルダンと、その子飼いの三か国。
可決には、八議席。まだ足りません。けれど、ここからが本番でしょう。
「アウグスト帝国代表。反論はございますか」
書記長の問いに、私は立ち上がりました。
「ございますわ。ですがその前に、一つ確認をさせてくださいまし」
私は円卓を見渡しました。
「レナルト侯。今の提案は、どの規則に基づく決議でしょう」
「規則第十一条。加盟国は決議を提案できる」
「では、可決に必要な議席は」
「三分の二。八議席ですな」
結構ですわ。
「その八という数、どこから来ておりますの」
「……総議席十二の、三分の二でしょう」
「では総議席十二は、どこから」
レナルト侯が、口を開いて、止まりました。
私は静かに続けました。
「附属書第七 第二項。『各加盟国の議席は、締結時の配分をもって永久とする』。この一枚が、この議場のすべての数の根拠ですわ」
私は、台の上の議場控えへ歩み寄りました。誰も止めませんでした。陛下が円卓の外に立っておられ、その視線が場を押さえていたからです。
私は革表紙を開き、後ろの附属書へ、指をかけました。
「書記長。本体第四十九条を、皆様の前で読んでくださる?」
オズヴァルトは、一瞬だけ間を置き、読み上げました。
「『本条約および附属書は、全加盟国の批准書の寄託をもって効力を生ずる』」
「ありがとうございます。では次に、附属書第七の批准書は何通ございますか」
議場が、ざわめきました。
「……四通です」
どよめきが、はっきりとした形になりました。
私は、円卓の全員に向き直りました。
「四通。十二か国のうち、四か国。全加盟国ではございませんわ。よって附属書第七は――二百年間、一度も効力を持っておりません」
「ば、馬鹿な! 二百年、我々は」
「ええ、従ってまいりました。誰も読まなかったからですわ」
私は閲覧簿の写しを掲げました。
「この二百年で、条約本体を開いた者は四十一人。直近三十年は、たった一人。……書記長。あなたですわね」
オズヴァルトは、答えませんでした。答えないことが、答えでございました。
私は附属書第七の一枚を、指で、挟みました。
「では、皆様。よくご覧くださいまし」
議場が静まりました。
「これから私が破るのは、条約ではございません。原本は地下の鉄扉の向こうに無傷でございます。私が破るのは、この議場控えに綴じられた――発効していない一枚。効力のない紙ですわ」
「や、やめろ! それは条約だ!」
レナルト侯が叫びました。私は微笑みました。
「あら。今、"条約だ"とおっしゃいましたわね」
私は、その言葉を待っておりました。
「効力のない紙を破られて困る方がいるのなら、その方は、効力がないことをご存じだったということですのよ」
――ビリッ。
乾いた音が、天井のない議場に響きました。
私は附属書第七を、両手で、真っ二つに引き裂いたのです。
「な……っ!」
ビリッ。ビリビリッ。
私はそれを、さらに細かく破り捨てました。かつて祖国の書類を衛兵に押し付けたあの日と、偽の聖典を裂いたあの日と、同じように。
「二百年ぶんの残業命令ですわ。効力のない紙が、十二の国から毎年八十万枚と、一つの国から銀鉱山を取り上げてまいりました」
白い紙片が、青空の下を舞っていきます。
「有能すぎる悪役令嬢は」
私は、舞い落ちる紙片の中で、静かに微笑みました。
「――今日も元気に、書類を破り捨てますの。たとえそれが、大陸を二百年縛ってきた条約の付録であろうともね」
看板回、いかがでしたでしょうか。ありがとうございました!
看板回でございます。第一部では祖国の書類を、第二部では偽の聖典を、そして第三部では大陸条約の附属書を。
今回いちばんこだわったのが、破る順番ですの。第二部は「これは偽物だ」と示してから破りました。第三部は「これは効力がない」と証明してから破ります。つまり――破っても何も壊れないと分かったうえで破るのですわ。そのほうが、ずっと事務官らしくて、ずっと痛快でしょう?
そしてレナルト侯の「それは条約だ!」を引き出す罠。効力のない紙を破られて困る人は、効力がないことを知っていた人。セシリアはこの一言を待っていたのです。
原本は地下で無傷、破ったのは議場控え――というのも、彼女らしい線の引き方ですわね。破壊ではなく、あくまで示威ですの。
次回、第60話「手続きによる反撃」。
書記長は激昂いたしません。彼が取り出すのは、条番号ですわ。
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