↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
58/65

第58話:批准書は、どこにもない

 批准書の綴りは、鉄の扉の中、条約本体のすぐ隣に置かれておりました。


 条約は、書いただけでは効きません。各国が持ち帰り、国内で承認し、承認したという紙を返す。その紙が批准書ですわ。

 全部そろって、初めて効力が生まれます。


「クリス様。本体第四十九条を読み上げてくださる?」

「はい。『本条約および附属書は、全加盟国の批准書の寄託をもって効力を生ずる』」


 全加盟国。

 私は綴りを開きました。


 条約本体の批准書は、きちんと十二通ございました。二百年前の各国の印、褪せた蝋。丁寧に綴じられ、順番も正しい。

 問題は、その後ろ。


「……四通」


 附属書第七の批准書は、四通しかございませんでした。


 私は三度数えました。三度とも、四通でした。


「イルゼ様。どの国か、読めます?」

「ヴェルダン王国。ケルニ王国。それから――東方の二か国です」


 イルゼ様の声が、途中から震えておりました。


「リースフェルトは、ありません」

「ええ」

「アウグスト王国も」


 私は綴りの端を指で押さえ、深く息を吐きました。


(つまり)


 附属書第七は、十二か国のうち四か国しか承認していない。

 条約本体第四十九条は、全加盟国の批准をもって効力を生ずると定めている。

 ならば、結論は一つですわ。


「附属書第七は、二百年間、一度も発効しておりません」


 クリス様が、書見台に手をついて体を支えました。


「……では、帝国が二百年払ってきた三十二万枚は」

「根拠のない支払いですわ」

「四千万枚を超えます」

「ええ。そして、いちばん怖いのはそこではございませんの」


 私は綴りを閉じ、静かに申しました。


「議席を十二分の一に固定していた条項も、発効しておりません」


 地下の空気が、ぴんと張りつめました。


「二百年、私たちは効力のない紙に従って、議決権を放棄していたのですわ」


 イルゼ様が、ゆっくりと顔を上げました。


「じゃあ……わたしの国の六万枚も」

「同じですわ。分担金の配分表は附属書第七の第一項に基づいております。発効していない条項に基づく請求ですもの」


 銀鉱山も、国境の三村も。

 根拠のない請求で取り立てられた担保です。


「セシリア様」


 イルゼ様の声は、震えを通り越して、かえって静かでした。


「三年です。わたしは三年、議事録を探していました」

「ええ」

「探す場所が、違ったんですね」


 私は首を振りました。


「いいえ。あなたは"手続きが正しく行われたか"を調べておいででした。それは真っ当な調べ方ですわ。ただ、この機構は――」


 私は鉄の扉を見上げました。


「手続きの正しさではなく、手続きの根っこのほうが腐っておりましたの」


 そのとき、扉の向こうから足音がいたしました。

 灰色の上着、飾りのない襟。


「閲覧のお時間が終了いたします」


 オズヴァルト書記長でございました。

 私は綴りから手を離し、丁寧に礼をいたしました。


「ありがとうございました。とても有意義でしたわ」

「何かお見つけになりましたか」

「ええ。四通しか、ございませんでしたわ」


 書記長の表情は、変わりませんでした。

 けれど彼は、私が思っていたより長く沈黙しておりました。


「……皇后陛下。二百年、誰も指摘しなかった事柄には、指摘されなかっただけの理由がございます」

「まあ。どんな理由でしょう」

「指摘すれば、二百年ぶんが崩れるからです」


 彼は一歩、こちらへ踏み出しました。


「分担金の返還請求が十二か国から出れば、この機構は解散します。紛争の調停役が消えます。それを望みますか」

「望みませんわ」

「では」

「ですから、直すのですわ」


 私は書記長を見返しました。


「壊すのではなく、直します。それが事務方の仕事でしょう、書記長」


 しばらくのあいだ、私たちは互いを見ておりました。

 同じ灰色の職業を選んだ者同士、たぶん、初めてきちんと目が合った瞬間でした。


「……総会は、明日でございます」


 書記長は背を向けました。


「議事日程の第一号議案は、貴国の査問です。ご準備を」

「ええ。準備は、もう済んでおりますわ」


 扉が閉まる音を聞きながら、私はイルゼ様に振り返りました。


「イルゼ様。明日、少しお時間をいただけます?」

「何をすれば」

「四つ、署名を集めてほしいのですわ。ご自分のぶんを入れて」


 私は微笑みました。


「二百年ぶんの未処理案件を、明日、一気に片づけますわよ」


 その夜。

 宿の卓に明日の段取りを広げておりますと、背後に人の気配がいたしました。


「寝ないのか」

「ええ。あと三回ほど、順序を確かめますわ」


 陛下は私の隣に腰を下ろし、卓の紙を一枚だけ手に取られました。明日の議事日程の写しです。しばらく眺めて、そのまま伏せて置かれました。


「セシリア。明日は、何をすればいい」

「何も」


 私は正直に申しました。


「明日は、剣がいちばん役に立たない日ですわ」

「そうか」


 陛下は少しのあいだ黙り、それから低くおっしゃいました。


「ならば、立っている」

「……立っている、ですの」

「お前が紙を破るとき、誰かが背中を見ている。それだけで、人は手が震えなくなる」


 私はペンを置きました。

 この方は、何もしないという仕事を、たぶん生まれて初めて引き受けようとしておられます。


「陛下。明日が終わりましたら、一日だけ、定時にお帰りになりません?」


 陛下は答えず、ただ、私の広げた紙の端をそっと押さえてくださいました。

 風もない部屋で、紙は一枚も動いておりませんでしたのに。

派手さのかけらもない一冊が、全部ひっくり返しましたわ。お付き合いくださりありがとうございます!


今回の主役は、剣でも数字でもなく「批准書の綴り」でした。条約は書いただけでは効きません。全加盟国が承認の紙を返して、初めて効力が生まれる――その一枚が、四通しかなかったのですわ。


つまり附属書第七は、二百年間ずっと発効していなかった。帝国が払い続けた四千万枚も、リースフェルトが鉱山を取られた六万枚も、根拠がなかったのです。……そして何より、議席を十二分の一に固定していた条項も、効いていなかった。


書記長の「指摘すれば、二百年ぶんが崩れる」という言葉は、彼なりの本音だったと思いますの。彼は私腹を肥やす型の悪人ではなく、機構を守るために腐敗を選び続けた男ですから。


それに対するセシリアの答えが「壊すのではなく、直します。それが事務方の仕事でしょう」。……この二人、立場が違うだけで、たぶん同じ職業なのですわ。


次回、第59話「皇后、附属書を破り捨てる」。

――お待たせいたしました。看板の出番ですわ。


もし「四通しかない」でひっくり返りましたら、ブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をお願いいたしますわ。皆様の応援が、明日の総会の燃料になりますの!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。