第58話:批准書は、どこにもない
批准書の綴りは、鉄の扉の中、条約本体のすぐ隣に置かれておりました。
条約は、書いただけでは効きません。各国が持ち帰り、国内で承認し、承認したという紙を返す。その紙が批准書ですわ。
全部そろって、初めて効力が生まれます。
「クリス様。本体第四十九条を読み上げてくださる?」
「はい。『本条約および附属書は、全加盟国の批准書の寄託をもって効力を生ずる』」
全加盟国。
私は綴りを開きました。
条約本体の批准書は、きちんと十二通ございました。二百年前の各国の印、褪せた蝋。丁寧に綴じられ、順番も正しい。
問題は、その後ろ。
「……四通」
附属書第七の批准書は、四通しかございませんでした。
私は三度数えました。三度とも、四通でした。
「イルゼ様。どの国か、読めます?」
「ヴェルダン王国。ケルニ王国。それから――東方の二か国です」
イルゼ様の声が、途中から震えておりました。
「リースフェルトは、ありません」
「ええ」
「アウグスト王国も」
私は綴りの端を指で押さえ、深く息を吐きました。
(つまり)
附属書第七は、十二か国のうち四か国しか承認していない。
条約本体第四十九条は、全加盟国の批准をもって効力を生ずると定めている。
ならば、結論は一つですわ。
「附属書第七は、二百年間、一度も発効しておりません」
クリス様が、書見台に手をついて体を支えました。
「……では、帝国が二百年払ってきた三十二万枚は」
「根拠のない支払いですわ」
「四千万枚を超えます」
「ええ。そして、いちばん怖いのはそこではございませんの」
私は綴りを閉じ、静かに申しました。
「議席を十二分の一に固定していた条項も、発効しておりません」
地下の空気が、ぴんと張りつめました。
「二百年、私たちは効力のない紙に従って、議決権を放棄していたのですわ」
イルゼ様が、ゆっくりと顔を上げました。
「じゃあ……わたしの国の六万枚も」
「同じですわ。分担金の配分表は附属書第七の第一項に基づいております。発効していない条項に基づく請求ですもの」
銀鉱山も、国境の三村も。
根拠のない請求で取り立てられた担保です。
「セシリア様」
イルゼ様の声は、震えを通り越して、かえって静かでした。
「三年です。わたしは三年、議事録を探していました」
「ええ」
「探す場所が、違ったんですね」
私は首を振りました。
「いいえ。あなたは"手続きが正しく行われたか"を調べておいででした。それは真っ当な調べ方ですわ。ただ、この機構は――」
私は鉄の扉を見上げました。
「手続きの正しさではなく、手続きの根っこのほうが腐っておりましたの」
そのとき、扉の向こうから足音がいたしました。
灰色の上着、飾りのない襟。
「閲覧のお時間が終了いたします」
オズヴァルト書記長でございました。
私は綴りから手を離し、丁寧に礼をいたしました。
「ありがとうございました。とても有意義でしたわ」
「何かお見つけになりましたか」
「ええ。四通しか、ございませんでしたわ」
書記長の表情は、変わりませんでした。
けれど彼は、私が思っていたより長く沈黙しておりました。
「……皇后陛下。二百年、誰も指摘しなかった事柄には、指摘されなかっただけの理由がございます」
「まあ。どんな理由でしょう」
「指摘すれば、二百年ぶんが崩れるからです」
彼は一歩、こちらへ踏み出しました。
「分担金の返還請求が十二か国から出れば、この機構は解散します。紛争の調停役が消えます。それを望みますか」
「望みませんわ」
「では」
「ですから、直すのですわ」
私は書記長を見返しました。
「壊すのではなく、直します。それが事務方の仕事でしょう、書記長」
しばらくのあいだ、私たちは互いを見ておりました。
同じ灰色の職業を選んだ者同士、たぶん、初めてきちんと目が合った瞬間でした。
「……総会は、明日でございます」
書記長は背を向けました。
「議事日程の第一号議案は、貴国の査問です。ご準備を」
「ええ。準備は、もう済んでおりますわ」
扉が閉まる音を聞きながら、私はイルゼ様に振り返りました。
「イルゼ様。明日、少しお時間をいただけます?」
「何をすれば」
「四つ、署名を集めてほしいのですわ。ご自分のぶんを入れて」
私は微笑みました。
「二百年ぶんの未処理案件を、明日、一気に片づけますわよ」
その夜。
宿の卓に明日の段取りを広げておりますと、背後に人の気配がいたしました。
「寝ないのか」
「ええ。あと三回ほど、順序を確かめますわ」
陛下は私の隣に腰を下ろし、卓の紙を一枚だけ手に取られました。明日の議事日程の写しです。しばらく眺めて、そのまま伏せて置かれました。
「セシリア。明日は、何をすればいい」
「何も」
私は正直に申しました。
「明日は、剣がいちばん役に立たない日ですわ」
「そうか」
陛下は少しのあいだ黙り、それから低くおっしゃいました。
「ならば、立っている」
「……立っている、ですの」
「お前が紙を破るとき、誰かが背中を見ている。それだけで、人は手が震えなくなる」
私はペンを置きました。
この方は、何もしないという仕事を、たぶん生まれて初めて引き受けようとしておられます。
「陛下。明日が終わりましたら、一日だけ、定時にお帰りになりません?」
陛下は答えず、ただ、私の広げた紙の端をそっと押さえてくださいました。
風もない部屋で、紙は一枚も動いておりませんでしたのに。
派手さのかけらもない一冊が、全部ひっくり返しましたわ。お付き合いくださりありがとうございます!
今回の主役は、剣でも数字でもなく「批准書の綴り」でした。条約は書いただけでは効きません。全加盟国が承認の紙を返して、初めて効力が生まれる――その一枚が、四通しかなかったのですわ。
つまり附属書第七は、二百年間ずっと発効していなかった。帝国が払い続けた四千万枚も、リースフェルトが鉱山を取られた六万枚も、根拠がなかったのです。……そして何より、議席を十二分の一に固定していた条項も、効いていなかった。
書記長の「指摘すれば、二百年ぶんが崩れる」という言葉は、彼なりの本音だったと思いますの。彼は私腹を肥やす型の悪人ではなく、機構を守るために腐敗を選び続けた男ですから。
それに対するセシリアの答えが「壊すのではなく、直します。それが事務方の仕事でしょう」。……この二人、立場が違うだけで、たぶん同じ職業なのですわ。
次回、第59話「皇后、附属書を破り捨てる」。
――お待たせいたしました。看板の出番ですわ。
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