第57話:附属書第七 ―― 誰も読まなかった一枚
条約本体は、記録室のいちばん奥、鉄の扉の向こうにございました。
閲覧には様式が要ります。けれど今回は、名簿の写しを手に入れておりました。ヴァルター様の地図が、名簿の綴じられた棚の段を正確に教えてくれたからです。
資格審査は昨日、正式に通っております。受付の書記は、私の顔を見て少しだけ気の毒そうにしておりました。
鉄の扉が開かれます。
中は狭く、書見台が一つあるだけ。その上に、革表紙の分厚い一冊。
シュタイン条約。第一年、初版。
「クリス様。本体は何条まで?」
「四十九条です。意外に短いですね」
「ええ。理念と手続きだけですもの」
私は頁をめくりました。
第一条、目的。第三条、加盟国名簿。第九条――ここは後で戻ります。第四十一条、繰越金。
そして最後、第四十九条の次。
紙の質が、変わりました。
(……ここから附属書)
本体より薄く、少し黄ばんだ紙が七枚、綴じ込まれておりました。附属書第一から、第七まで。第一から第六は、議場の座席順や旗の掲揚といった儀礼の取り決めです。
最後の一枚が、附属書第七。
私は、それを声に出して読みました。
「『第一項 各加盟国の分担金は、十年ごとに国力に応じて改定する』」
イルゼ様が、隣で息を詰めておりました。
「『第二項 各加盟国の議席は、本条約締結時の配分をもって永久とし、改定を要しない』」
……たった、二行。
私は、しばらくその紙を見つめておりました。
(見事ですわ。本当に、見事)
悪意のある文ではございません。むしろ、当時としては筋が通っておりました。
二百年前の締結時、加盟国の国力にはさほど差がございませんでした。だから議席は一律に配り、分担金だけは公平を期すために国力比例とし、十年ごとに見直すことにした。良心的ですらありますわ。
問題は、たった一つ。
片方に「見直す」と書き、もう片方に「永久」と書いてしまったこと。
「二百年で、どうなりましたの」
私は自分に問いかけるように呟きました。
国は伸び、あるいは縮みます。帝国は東の端の農業国から、大陸最大の工業国になりました。リースフェルトは主坑道の落盤で採掘が止まり、人口が半分に減りました。
分担金だけが、その変化を毎年きちんと追いかけた。
議席は、二百年前の地図のまま止まった。
「クリス様。これは搾取の設計図ではございませんわ」
「では、何でしょう」
「事故ですわ。二百年かけて、ゆっくり起きた事故」
私はページの端を指でなぞりました。
「そして事故は、放置すれば必ず誰かの利益になります。利益になった者は、直させません」
イルゼ様が、震える声で言いました。
「これ……わたし、読んだことがあります」
「まあ」
「三年前に。でも、附属書なんて儀礼の付録だと思って、飛ばしました」
彼女は両手で顔を覆いました。
「ここにあったのに」
「イルゼ様」
私は、彼女の肩に手を置きました。
「あなただけではございませんわ。この二百年、十二か国の誰も読まなかったのですもの」
証拠がございます。
私は、書見台の脇にある閲覧簿を引き寄せました。この本を開いた者は、必ずここに署名する決まりです。
二百年ぶんの、署名。
その数、四十一。
「二百年で、四十一人しか開けていない」
「……少なすぎませんか」
「ええ。しかも」
私は最後の頁を見て、思わず眉を上げました。
最も新しい署名。日付は昨年。
『常任書記長 オズヴァルト・ロータリンゲン』
その上も、その上も。
直近三十年の署名は、すべて同じ名でした。
(この方は、毎年ここへ来ている)
誰も読まない一枚を、毎年一人だけ読みに来る。
守るためでは、ございません。確かめに来ているのです。まだ誰も気づいていないことを。
私は閲覧簿にペンを走らせました。
『アウグスト帝国代表 セシリア・フォン・クロイツ』
四十二人目。
「イルゼ様。まいりましょう」
「どこへ」
「批准書の綴りへ」
私は附属書第七を閉じました。
「この二行を大陸に押しつけるには、十二か国が承認した紙が要りますわ。……それを、まだ一枚も見ておりませんの」
たった二行の回でしたわ。最後までありがとうございました!
とうとう出てまいりました、附属書第七。分担金は十年ごとに改定する、議席は永久に改定しない。……たった二行ですわ。
今回いちばん書きたかったのは「これは搾取の設計図ではなく、事故です」という一点でした。二百年前の起草者に悪意はなかったのです。当時は国力に差がなかったのですから、むしろ良心的な設計でしたわ。片方に「見直す」、もう片方に「永久」と書いてしまった。それだけ。
そして――事故は、放置すれば必ず誰かの利益になる。利益になった者は、直させない。これが第三部の悪の正体ですの。
閲覧簿の署名が二百年で四十一人、しかも直近三十年はすべて書記長ひとり、というのも気に入っている仕掛けです。彼は守りに来ているのではなく、確かめに来ているのですわ。まだ誰も気づいていないことを。
そして四十二人目が、セシリア。
次回、第58話「批准書は、どこにもない」。
その二行が、そもそも発効していたのかどうかを問いますわ。
もし「たった二行」にぞっとしましたら、ブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をお願いいたしますわ。皆様の応援が、四十二人目の署名を後押ししますの!




