第56話:分担金という名の、大陸の残業代
三日後。
私たちは、地下の一角に机を三つ並べておりました。
左に私、中央にイルゼ様、右にクリス様。
机の上には、ヴァルター様の地図に沿って引き出した帳簿が積み上がっております。
「イルゼ様、そちらの十年分は」
「終わりました。運営費、毎年ちょうど四万枚。一枚の狂いもありません」
「クリス様は」
「こちらも同じです。四十年分、すべて四万枚ぴったりです」
私はペンを置きました。
(……ぴったり)
これが、最初の違和感でした。
人が働き、紙を買います。灯りを灯し、屋根も直します。それが四十年、一枚の狂いもなく同じ額で収まるなどということは、この世に一度も起きません。
「予算ではなく、決算がぴったりですのね」
「はい。決算です」
「では、これは決算ではございませんわ。予算の額を、決算の欄に書き写しただけですのよ」
イルゼ様が顔を上げました。
「……調べようがない」
「いいえ。調べる場所を変えればよろしいのです」
私は棚の別の列を指しました。
「この街は書類の街ですわ。書記局が何を買ったかは、書記局の帳簿より、売った側の記録に残っておりますもの」
自由都市シュタインには、商人組合がございます。組合は取引を記録し、税のために市へ届け出ます。書記局が中立でも、彼らに紙を売る商人は中立ではございません。ただの、商売です。
私たちは、市の記録所へ通いました。
紙の納入、灯油や石炭、屋根の修繕。書記の給金は、市の名簿から。
三日目の夜に、数字が揃いました。
「クリス様。読み上げてくださる?」
「はい。書記局の実支出、年間およそ金貨一万二千枚です」
イルゼ様が、ペンを取り落としました。
「公表は四万枚」
「ええ。差額は、年間二万八千枚ですわ」
私は白紙を一枚引き寄せ、真ん中に線を引きました。
左に八十万枚、右に、行き先。
「まず十二か国が納めるのが八十万枚。うち帝国が三十二万枚。書記局が実際に使うのは一万二千枚」
「……残りは」
「そこですわ」
私は帳簿の最後の頁を開きました。
そこには、たった一行だけございました。
『翌年度繰越金』
金額の欄は、空白。
金額は、書かれていないのです。
「まあ」
私は思わず声を漏らしました。
(残高を書かない帳簿。……これは、もう芸術ですわ)
繰越金という言葉には、力がございます。使い残しであって、誰のものでもない。取ったのではない、まだ返していないだけ。だから咎める言葉が見つからない。
「二百年ですわね」
私はペンを走らせました。
「年間二万八千枚。二百年で――金貨五百六十万枚」
地下室が、しんと静まり返りました。
「五百六十万」
イルゼ様が、掠れた声で繰り返しました。
「わたしの国の未払いは、六万枚です」
「ええ」
「六万枚で、鉱山と三つの村を」
彼女の指が震えておりました。私はその手に、そっと自分の手を重ねました。
「イルゼ様。落ち着いて数えましょう。あなたの六万枚は、この繰越金の九十三分の一ですわ」
ええ。
彼らは五百六十万枚を金庫に積み上げたまま、六万枚を払えない国から、鉱山を取り上げたのです。
「クリス様。この繰越金は、規則上どう扱われますの」
「条約本体第四十一条。繰越金は書記局が管理し、必要に応じて機構の運営に充てる、とあります」
「使途の報告義務は」
「……ありません」
私は椅子の背にもたれ、天井のない空を見上げました。星が出ております。
(誰も盗んでおりませんわ。横領ではないのですもの。ただ、返さなかっただけ)
バルタザール猊下は、金を金庫に流し込みました。だから流れを示せば足りました。
オズヴァルト書記長は、何も流しておりません。ただ、蛇口を閉めなかった。それだけで二百年、五百六十万枚。
「セシリア様。これ、告発できますか」
イルゼ様の問いに、私は正直に答えました。
「いいえ。今のままでは、できませんわ」
彼女の顔が曇ります。私は続けました。
「使い残しを溜めることは、規則で禁じられておりません。禁じられていないことは、罪になりません」
私はペンの先で、白紙の左端――八十万枚と書いた場所を叩きました。
「ですから、叩くのはここですわ。溜めた出口ではなく、集めた入口。八十万枚の配分そのものが正しいのかを、問います」
「配分……」
「ええ。なぜ帝国が四割で、あなたの国が六万枚なのか。その根拠となる紙を、まだ誰も見ておりませんもの」
私は立ち上がりました。
「ヴァルター様の地図に、もう一つだけ行き先が残っておりましたわ。条約本体の、附属書」
とうとう帳簿を開きましたわね。お読みくださりありがとうございます!
四十年間、決算がぴったり四万枚。ここが最初の綻びでした。予算がぴったりなのは普通ですが、決算がぴったりなのは異常ですわ。……こういう「妙に綺麗な数字」に反応してしまうのが、事務官の悲しい性ですわね(笑)。
そして今回のいちばんの狙いが「繰越金」という言葉の強さですの。使い残しであって、誰のものでもない。取ったのではなく、まだ返していないだけ。だから咎める言葉が見つからない――第二部の横領二百四十万枚より金額は大きいのに、こちらのほうが告発しにくいのです。
「誰も盗んでいない。ただ、蛇口を閉めなかっただけ」。これが第三部の悪の形ですわ。
そして六万枚と五百六十万枚。イルゼの手が震える場面を、どうしても書きたかったのです。
次回、第57話「附属書第七 ―― 誰も読まなかった一枚」。
出口ではなく入口へ。八十万枚の配分を決めている紙が、とうとう出てまいりますわ。
もし「繰越金」という言葉の怖さが伝わりましたら、ブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をお願いいたしますわ。皆様の応援が、五百六十万枚の扉を叩く音になりますの!




