第55話:議事録の墓場
記録室の最奥に、小さな机がございました。
その前に、白髪の老人が座っております。灰色の制服の袖口はすり切れ、指はインクで黒く染まっておりました。
「記録官のヴァルターと申します」
彼は立ち上がろうとして、腰を押さえ、そのまま座り直しました。
「失礼を。四十二年もこの椅子に座ると、体のほうが棚の形に馴染んでしまいまして」
「まあ。四十二年」
「あと三月で退官です。ようやく」
ようやく、という言い方に、私は少し引っかかりました。
「ヴァルター様。加盟国名簿の写しをいただけますかしら」
「様式第二十二号が必要でございます」
「その様式を出すには代表資格が要りますの。そして資格を得るには、名簿が要りますのよ」
ヴァルターは、しばらく私を見つめました。
そして、ふう、と長い息を吐きました。
「……はい。存じております」
「ご存じでしたの」
「四十二年、何度も見ました。ここまで来て、そこで止まる方を」
彼は机の引き出しを開け、一冊の古い綴りを取り出しました。表紙には何も書かれておりません。
「これは私の私物です。規則に定めのない書きつけですから、様式は要りません」
開かれた頁には、細かな文字が並んでおりました。日付。国名。そして短い一行。
『第百七十三年 秋 ケルニ王国代表 名簿閲覧を申請。資格審査未了により不受理』
『第百八十一年 春 サヴァル諸島連合代表 分担金配分の改定を提起。日程に登載されず』
『第百九十七年 冬 リースフェルト公国代表 議決権停止の事実照会。回答なし』
私は、息を呑みました。
載らなかった議題の、記録。
どこにも残らないはずのものが、ここに、たった一冊だけ残っていたのです。
「ヴァルター様。これは」
「日記のようなものです。何の効力もありません」
彼は目を伏せました。
「若い頃、最初に止められた代表がいました。私は何もしませんでした。次の年も、その次の年も。……やめる勇気も、続ける理由もなかった。ただ、書くだけはやめられませんでした」
声は淡々としておりました。けれど、その淡々のさせ方に、四十二年ぶんの何かが詰まっておりました。
「イルゼ様が三年、この棚を探しておられます」
「存じております」
「なぜ、お渡しにならなかったの」
ヴァルターは、初めて顔を上げました。
「渡せば、あの方はこれを証拠として出します。そして書記長は言うでしょう。『一個人の私的な書きつけに効力はない』と。あの方はまた三年を失う。……それが怖かった」
ええ。
そのとおりですわ。この綴りは、それだけでは何の力もございません。
私はしばらく考え、それから、静かに申しました。
「ヴァルター様。この綴りは証拠になりません」
「はい」
「ですが、地図にはなりますわ」
彼が、目を瞬かせました。
「どこに何が"無い"かを、あなたはご存じですのね。ならば私は、闇雲に七百冊を読む必要がなくなります。欠けている場所へ、まっすぐ行けますもの」
私はイルゼのほうを振り返りました。彼女は棚の陰で、じっとこちらを見ておりました。
「イルゼ様。目録の作り方を先ほど申しましたわね。あれに、この地図を重ねますわ」
「……順番が、逆になる」
「ええ。無いものを探して回るのではなく、無い場所を先に決めて、そこの受付印を集めに行くのです」
イルゼの目に、久しぶりに光のようなものが差しました。
ヴァルターは綴りを両手で持ったまま、動きませんでした。
「私は、証人にはなれません」
「なっていただかなくて結構ですわ」
「……よろしいのですか」
「ええ。この綴りは、私が読んで、私が書き写します。あなたは何も渡していない。ただ、机の上に私物が置いてあっただけですもの」
老人の手が、ゆっくりと開きました。
綴りが机に置かれます。彼はそのまま椅子を引き、背を向けました。
「……今日の私は、少し疲れております。少し、席を外します」
「どうぞ、ごゆっくり」
足音が遠ざかっていきました。
私は綴りを開き、ペンを取りました。
(四十二年。ずっと、誰かが取りに来るのを待っていらしたのですわね)
「セシリア様」
イルゼが隣に来て、綴りを覗き込みました。
「……あの人を、責めないんですね」
「責めても、二百年は戻りませんもの」
私は最初の一行を書き写しながら、微笑みました。
「それに、あの方は四十二年サボらずに書いたのですわ。私、そういう事務官がとても好きですの」
宿へ戻ったのは、真夜中でございました。
部屋の灯りが、まだ点いております。扉を開けますと、レオンハルト様が窓辺の椅子に座っておいででした。膝の上に地図が広げてありますが、目は閉じております。
「陛下。お休みになっていてよろしかったのに」
「……戻ったか」
目を開けた陛下は、私の手をご覧になりました。指先が埃で黒く汚れております。イルゼ様と、同じ色ですわ。
陛下は何もおっしゃらず、私の手を取りました。水差しの水を布に含ませ、指を一本ずつ拭き始めたのです。
「へ、陛下。私、自分でできますわ」
「知っている」
それきり、陛下は黙って手を動かしておいででした。
(……この方は、いつもそうですわね。止めもせず、褒めもせず。ただ、帰ってきた分だけを引き受けてしまわれる)
膝の上の地図は、たぶん一度も開いておりません。
布が、最後の指を離れました。
「セシリア」
「はい」
「明日も、遅くなるか」
私は、答えを持っておりませんでした。
四十二年ぶんの綴りが出てくる回ですの。お付き合いくださりありがとうございました!
老記録官ヴァルター。彼は悪人ではありませんし、英雄でもありません。四十二年、見て見ぬふりをしながら、それでも書くことだけはやめられなかった人ですの。
そして彼がイルゼに綴りを渡さなかった理由が「渡せば、あの方はまた三年を失う」だったのが、この話の芯ですわ。優しさのつもりで、結果として三年を止めてしまった。……このあたり、身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。
セシリアの「証拠になりません。ですが、地図にはなりますわ」は、書いていていちばん気持ちのよい台詞になりました。効力のない紙にも、使い道はあるのですわね。
「今日の私は、少し疲れております」と言って席を外すヴァルター。彼なりの、四十二年目の精一杯でしたの。
次回、第56話「分担金という名の、大陸の残業代」。
いよいよ帳簿を開きますわ。年間八十万枚は、どこへ行っているのでしょう。
もし「証拠にはなりませんが、地図にはなります」にうなずいてくださったら、ブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をお願いいたしますわ。皆様の応援が、四十二年ぶんの綴りに光を当てますの!




