第53話:常任書記長オズヴァルト
地下の記録室へ向かう回廊で、その方は待っておりました。
灰色の上着。飾りのない襟。年の頃は六十半ばでしょうか。手には何も持たず、背筋だけがまっすぐでした。
「アウグスト帝国代表、セシリア・フォン・クロイツ皇后陛下」
声は静かで、よく通りました。
「常任書記長、オズヴァルト・ロータリンゲンと申します。祖父の代より三代、この職を務めております」
私は礼を返しました。
「ごきげんよう、書記長。お噂はうかがっておりますわ」
「よい噂ではありますまい」
「ええ。ですが、正確な噂でしたの」
彼はわずかに口の端を上げました。笑ったというより、そういう形になったという程度です。
「受付でご不便をおかけしました。手続きは、どうしても時間がかかります」
「いいえ。とても勉強になりましたわ。あの閉路、どなたの設計ですの」
オズヴァルトは瞬きもしませんでした。
「様式第十四号と第二十二号を定めた規則は、制定年が六十年離れております。設計した者はおりません。積み重なっただけです」
「まあ。では、誰の責任でもないと」
「はい。手続きとは、そういうものでございます」
……なるほど。
私は内心で一つ、印を押しました。
(この方は、嘘をつかない。嘘をつく必要がないように、仕組みのほうを作る)
バルタザール猊下は神を騙りました。だから騙りだと示せば崩れました。
けれどこの方は何も騙っておりません。中立を、手続きを、粛々と運用しているだけ。悪意の在り処が、どこにも指させないのです。
「書記長。査問の議題ですが」
「はい」
「提案国の欄が空欄でしたわ。あれはどなたが載せましたの」
「私でございます」
あっさりと、彼は認めました。
「規則第三条二項。書記長は、大陸の秩序に関わる事項を職権で議事日程に登載できます」
「その"大陸の秩序に関わる"の判断は、どなたが」
「私でございます」
二度目も、まったく同じ調子でした。
「では、判断の基準は」
「明文はございません」
私は微笑みました。心のどこかが、きしきしと鳴っております。
「基準のない裁量が、二百年」
「はい。基準を定めれば、そこに書かれていない危機に対応できません。中立の機構が硬直することを、設立者は最も恐れました」
立派な理屈ですわ。
そして、こういう理屈こそがいちばん質の悪い帳簿を守るのです。
「書記長。ひとつだけ、うかがってもよろしくて」
「どうぞ」
「あなたはこの二百年で、いくつの議題を"載せなかった"のでしょう」
初めて、彼の目がわずかに動きました。
ほんの一度、瞬いただけ。けれど私は、その瞬きを見ておりました。
「記録がございません」
「載せなかった議題は、記録に残らないから?」
「はい」
私はうなずき、懐から手帳を出しました。そして今の一問一答を、日付と時刻を添えて書き取りました。
「何をしておいでですか」
「記録ですわ」
ペンを止めずに、私は答えました。
「あなたが今おっしゃった"記録がございません"という言葉。これには記録が残ります。私が残しますもの」
オズヴァルトは、しばらく黙っておりました。
そして初めて、口調をわずかに変えました。
「皇后陛下。あなたは有能でいらっしゃる」
「恐れ入りますわ」
「だからこそ申し上げます。有能な方ほど、この機構では長くもちません」
彼は回廊の奥、地下へ続く階段を目で示しました。
「二百年のあいだに、あなたのように帳簿を見ようとした代表は、幾人もおいででした」
「その方々は、どうなさいましたの」
「任期が満了なさいました。皆様、規則どおりに」
殺されたのではありません。潰されたのでもありません。
ただ、時間切れになったのです。手続きに付き合っているうちに、任期が終わる。
二百年、それだけで十分だったのです。
私は手帳を閉じ、深く一礼いたしました。
「ご忠告、痛み入りますわ。書記長」
そして顔を上げ、まっすぐに彼を見ました。
「ですが、あいにく私、任期がございませんの。皇后というのは、そういう職ですのよ」
オズヴァルトの表情は変わりませんでした。
ただ、彼が身を引いて道を空けたとき、その動きがほんの少しだけ、遅れたように見えました。
宿敵との初対面でしたわ。最後までお読みくださりありがとうございます!
宿敵オズヴァルト、登場ですわ。第二部のバルタザールが「神を騙る男」だったのに対して、彼は何ひとつ騙っておりません。規則第三条二項をそのまま運用しているだけ。悪意の在り処が、どこにも指させないのです。
「設計した者はおりません。積み重なっただけです」――この一言が、第三部でいちばん恐ろしい台詞かもしれませんわ。誰の責任でもない仕組みほど、壊しにくいものはございませんもの。
そして彼の忠告「有能な方ほど長くもちません」。殺すのでも潰すのでもなく、手続きに付き合わせて任期切れを待つ。二百年、それで足りていた――というのが本当に怖いところですわね。
セシリアの返しは、彼女にしか言えないものになりました。皇后には任期がございませんの。
次回、第54話「担保に取られた銀鉱山」。
地下の記録室で、セシリアは先客に出会います。分担金を払えず、国土を担保に取られた小国の女公。……そして彼女は、セシリアを信じません。
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