第49話:定時の鐘に紛れた、灰色の封蝋
第三部、開幕ですわ! 聖都の一件から一年。すっかりホワイトになった帝国中央庁の執務机に、白でも赤でもない――灰色の封蝋が届きます。差出人は大陸の中央、十二か国の常設機構。セシリアの監査眼が最初に引っかかったのは、金額ではなく「押されていた印の数」でしたの。
午後五時。
帝国中央庁に、今日も幸福を告げるベルが鳴り響きました。
「皆様、本日も素晴らしいお仕事をありがとうございました。定時ですわ。どうぞお帰りなさいませ」
私の号令で、事務官たちが一斉にペンを置きます。
聖都から戻って一年。この光景はもう、帝国の呼吸のようなものになりました。
セシリア・フォン・クロイツ。皇后で、最高顧問で、そして生粋の事務中毒。肩書きが増えても、中身は何一つ変わっておりません。
(本日の決算誤差、〇・〇〇〇〇八%。据え置きですわね。そろそろ帳票の様式そのものを見直す頃かしら)
満ち足りた気分で最後の一枚を仕舞おうとして、私は手を止めました。
執務机の隅。処理済みの箱でも未処理の箱でもない、どちらでもない場所に一通の封書が置かれていたのです。
灰色の封蝋でした。
白でも赤でもございません。雨に濡れた石のような、くすんだ灰色。押された紋章は、円環にならぶ十二の点。
「クリス様。これは、いつ届きましたの」
「三日前です。申し訳ありません、皇后陛下。私の判断で止めておりました」
振り返ると、クリス様が胃のあたりを押さえて立っておりました。せっかく健康的になった顔色が、また元の白さに戻りかけています。
「止めた理由をうかがっても?」
「開けたら、あなたが定時に帰らなくなると思ったからです」
まあ。ずいぶん正確な予測ですこと。
「素晴らしい判断ですわ、クリス様。三日ぶんの平穏を守ってくださったのですもの。始末書ではなく報奨の対象です」
「では、そのまま燃やしてもよろしいでしょうか」
「それは横領ですわ」
私はペーパーナイフを取り、灰色の封蝋を割りました。
中身は、二通ございました。
一通目は通告書。大陸公会議書記局より、アウグスト帝国の年間分担金を金貨三十二万枚から三十八万枚へ改定する旨。
二通目は通知書。次期公会議において、「アウグスト帝国の会計公開政策が大陸の秩序に及ぼす影響」を査問議題として審議する旨。
「六万枚の増額と、査問。……ずいぶん盛りだくさんな封筒ですこと」
「そ、即刻お捨てになった方がよろしいのでは」
「クリス様、落ち着いて。まずは深呼吸をなさいまし」
クリス様が咳払いをして、震える指で通告書を指しました。
「三十八万枚といえば、帝国の事務官全員の年俸を三年ぶん賄えます。しかも査問など、事実上の弾劾では」
ええ、そのとおりですわ。
けれど私が眉を寄せたのは、金額でも査問でもございませんでした。
(……この書式、おかしいですわ)
私は二枚を並べ、灯りにかざしました。
十二か国が加盟する常設機構の文書です。当然、決定は合議によるはず。ならば末尾には議長国の印と、議決の日付と、賛否の内訳が入ります。それが機構の文書というものですわ。
けれど、ここにあるのは。
「押印が、一つだけ」
円環に十二の点。その下に小さく、常任書記長オズヴァルト・ロータリンゲンの署名。
議決日は空欄、賛否の内訳は記載なし。付属すべき議事録の写しも、同封されておりません。
「クリス様。この六万枚の増額は、何か国の賛成で決まったのでしょう」
「……それは、書いてありませんね」
「ええ。書いていないのではなく、たぶん、存在しないのですわ」
私は通告書を灯りにかざしたまま、その端に指をかけました。
「こ、皇后陛下!?」
「ご安心なさいまし。破りますのは、こちらだけですわ」
――ビリッ。
乾いた音がして、金貨三十八万枚の請求が、二枚に分かれました。
「な、なにをなさるのです!」
「クリス様。この紙には議決の日付も、賛否の内訳も、議長国の印もございません。つまり機構の決定ではございませんの。ただの、お手紙ですわ」
私は破いた二枚を重ね、角を揃えて封筒へ戻しました。
「破っても、何も壊れませんでしょう。壊れる紙なら、破れませんもの」
もう一通――査問の通知書のほうは、丁寧に折り直して机に置きました。
こちらは書記長の職権とはいえ、手順を踏んで出された紙です。憎らしくはございますが、正しく出された紙には正しく応じる。それが事務官の礼儀ですわ。
私は封筒を裏返し、もう一度紋章を見ました。
十二の点。そのどれもが、この紙に触れておりません。
(一人の事務方の署名だけで、一国の年間予算に六万枚の穴を開けられる。……そんな仕組みが、二百年も回っているのだとしたら)
背筋を這い上がってきたのは、恐怖ではありませんでした。
もっと古くて、もっと厄介な感情。事務官が、乱れた帳簿を見つけてしまったときの、あの疼きです。
「クリス様。公会議の分担金、うちは毎年きちんと払っておりますわね」
「はい。二百年、一度の遅延もなく」
「その二百年ぶんの領収書は、どこに」
クリス様が、口を開けたまま固まりました。
「……ございません」
まあ。
私は灰色の封蝋の欠片をつまみ上げ、そっと微笑みました。
「では、いただきに行きましょう。二百年ぶんの、領収書を」
第三部、開幕ですわ! ここまでお付き合いくださっている皆様、本当にありがとうございます。
第二部の敵は「神の名を騙る帳簿」でした。第三部の敵は――「中立の名を騙る帳簿」ですわ。剣も神託も持たず、条文と押印だけで大陸を動かしてきた機構が相手になります。つまり今回の宿敵は、セシリアと同業。事務方です。
そして彼女が最初に反応したのが、六万枚の増額でも査問でもなく「押印が一つしかない」ことだったあたり、やっぱり彼女は監査官ですわね(笑)。
次回、第50話「大陸公会議、招集される」。
十二か国の常設機構とは何なのか。そして、帝国を査問する議題を"議事日程に載せた"のは誰なのか。
第三部もどうぞよろしくお願いいたしますわ。ブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をいただけましたら、セシリアの新しい執務室がぱっと明るくなりますの!




