第38話:過労で潰される会計修道士
帳簿閲覧までの三日間を、私は無駄にはしませんでした。
「被告」として軟禁されるどころか、堂々と聖都を視察して回りました。陛下という最強の護衛がいる以上、教国側も迂闊に手出しはできません。
二日目の夜。
私は、大聖堂の裏手にある「会計院」――教国の金の流れを記録する部署の、灯りがまだ一つだけ点いている窓に、目を留めました。
(こんな時間まで灯りが点いている。ええ、この"におい"、間違いありませんわ。ブラック職場の残業灯です)
私は、その窓の下へ歩み寄りました。案の定、中からは、うめき声のような独り言が漏れ聞こえてきます。
「ああ、また合わない……。この巡礼税の総額、上に報告した数字と実際の帳簿がどうしても……。でも、"合わせろ"と言われた以上、合わせなければ……ううっ、胃が」
(胃を抑えている)
私は、思わず、遠い日のクリス様の姿を、その声に重ねてしまいました。かつて、一ヶ月分の滞留書類に潰されかけていた、あの胃薬の瓶を握りしめた青年を。
私は、迷わず会計院の扉を叩きました。
「夜分に失礼いたしますわ。お困りのようですから、お手伝いに参りましたの」
「え……? だ、誰って、あ、あなたは、異端の……セ、セシリア様!?」
振り返ったのは、まだ二十歳そこそこの、青白い顔をした修道士でした。目の下には濃い隈。指先はインクで真っ黒。三日三晩は眠っていない顔です。
「せ、聖女様を惑わす罪人がなぜここに……! わ、私はあなたと話してはいけないと」
「あら。では、話さなくて結構ですわ。その代わり、そこの右から三番目に積まれた帳簿の束。巡礼税の集計でしょう? 単価の設定が去年の改定前のままですわよ。だから合わないのです」
「え?」
青年――トビアス修道士は、弾かれたようにその帳簿をめくりました。そして、絶句しました。
「ほ、本当だ……。改定前の単価が混ざって……。で、でも、なぜ一目見ただけで!?」
「一週間分の未処理書類を五分で仕分けていた女ですもの。このくらいの綻び、匂いで分かりますわ」
私は彼の隣に腰を下ろし、彼が抱えていた帳簿の山を、そっと引き寄せました。
「あなた、お名前は?」
「ト、トビアスです。会計院の下級修道士の」
「トビアス様。あなた、この教国の会計をたった一人で背負わされているのでしょう?」
「……っ」
トビアスの肩が震えました。図星だったのです。
「上の聖職者様たちは"金勘定は卑しい仕事"だと仰って、誰も帳簿に触れません。でも、記録がなければ教国は回らない。だから、私が一人で、全部……。眠る暇もなく、間違えれば異端の疑いをかけられ……。でも、私が倒れたら、この国の金の流れが、全部……」
ぽろり、と。
トビアスの目から涙がこぼれました。過労と、孤独と、恐怖に、ずっと押し潰されていたのでしょう。
(ああ。この子も、"私"だわ)
三年前の、あの日の私。誰にも労われず、誰にも代われず、ただ一人、国の全業務を背負わされて、机の上で死にかけていたあの頃の私。
「トビアス様」
私は彼の肩に、そっと手を置きました。
「あなたは、悪くありませんわ。あなたを一人で潰そうとしたこの職場が悪いのです。そして、大丈夫。今夜は私が手伝います。この三日分の残業、二時間で終わらせて、あなたを寝かせて差し上げますから」
「で、でも、あなたは、異端の……」
「異端かどうかは三日後に帳簿が決めますわ。でも、それとは別に。目の前で有能な働き手が過労で潰されかけているのを、私は放っておけない質なのです。昔、私もそうやって一人の"ホワイトな上司"に拾われましたから」
私は羽ペンを取り、流れるような動作で帳簿を捌き始めました。シュバババッ、という音が出るかのような速さで、三日分の巡礼税集計が、みるみる整理されていきます。
「す、すごい……。こんな速さ、見たことが……」
トビアスが涙も忘れて、呆然と見入っています。
そして――彼は、帳簿を整理する私の手元で、あることに気づいて、息を呑みました。
「セシリア様。あの、この、巡礼税の"最終集計"なんですが。私が上に提出した数字と、大枢機卿様が"公式記録"として発表する数字が、毎年必ず、二割ほど減っているんです。私は、ずっと自分の計算が間違っているのだと思っていました。でも……」
私はペンを止め、静かに顔を上げました。
――ここに、糸口がありました。消えた金貨の、その入り口が。
「トビアス様。それは、あなたの計算間違いではありませんわ」
私は静かに、しかしはっきりと告げました。
「あなたの数字が正しいのです。減った二割こそが――誰かが帳簿から"抜いている"金額。よく、教えてくださいました。あなたは、この国で一番、正直な数字を守り抜いた人です」
会計院を出ると、石畳の上に長い影が一つ、立っていました。
陛下でした。いつからそこにいらしたのか、外套の肩が夜露で湿っています。
「……陛下。お待ちくださらなくても」
「三年前、お前を待った者はいなかったのだろう」
陛下はそれだけ仰って、その外套を私の肩にかけました。
夜露を吸って、重い外套でした。
重い回にお付き合いくださって、ありがとうございました!
教国の会計を一人で背負い、過労で潰れかけた修道士トビアス。彼の姿に、セシリアは「三年前の自分」を重ねます。第一部のクリスに続く、"セシリアに拾われる働き手"の再演ですわ。
そして、彼が守り抜いた「正直な数字」と「公式記録」の二割の差――消えた金貨の入り口が、ついに見つかりました。過労で潰されかけた人間の、たった一つの誠実さが、巨大な不正を暴く鍵になる。私はこういうお話が、書いていて一番好きですの。
次回、第39話「贖罪券という名の、聖なる借金」。
搾取の仕組みの全貌が、数字で明らかになりますわ!
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