第31話 閑話 血塗られた皇帝は、なぜか令嬢を眠らせたい ――レオンハルト視点
本編第2〜3話「国境の邂逅」を、拾った側――冷血皇帝レオンハルトの視点から描く閑話です。彼が、まだ名前も知らぬ令嬢に、なぜあれほど「眠れ」と命じたのか。ご本人にも、どうやらよく分かっていなかったようですわ。
私、レオンハルト――アウグスト帝国の皇帝は、これまで一度として、己の判断を「説明できない」と感じたことがなかった。
戦況、国益、損得。世のあらゆる事象は、突き詰めれば数字と論理で裁断できる。感傷は非効率であり、非効率は敗北に通じる。――それが、血で洗い続けた二十年で、私がこの帝国を守り抜いてきた統治哲学だった。
だから国境のあの朝、進軍の隊列を割ってまで一台の馬車を止めさせたのも、当初は純然たる合理だったはずだ。
「……何者だ。この非常時に馬車を走らせるとは」
問うた私の前に、女が一人、転がり落ちるように降りてきた。
――そして、私の合理は、その顔を見た瞬間に凍りついた。
土色の頬。落ち窪んだ眼窩。目の下には、墨でも塗りたくったような濃い隈。
戦場で幾百の屍を見てきたこの私が、思わず「死人か」と錯覚するほどの、生気の枯れ果てた顔だった。
「セシリア・フォン・クロイツと申します。……たった今、祖国を婚約破棄され、ついでに追放されてきた、無職の女でございます」
朦朧としながらも、その口上には奇妙な芯があった。
クロイツ公爵家――隣国アウグスト王国の政務を一手に握る、宰相代行の令嬢。斥候の報告で、名だけは知っていた。あの腐り切った王国が、かろうじて形を保っている唯一の理由。その名を持つ女が、なぜ、こんな死にかけの姿で、私の眼前に。
(――この女がいなくなれば、あの国の政務は止まる)
私は咄嗟に、そう己へ言い聞かせた。これは投資だ。敵国の心臓を、戦わずして抜き取る好機。救うのが最短の攻略法だ、と。
……だが、正直に記しておこう。
その時、私の腹の底で冷たく鳴っていたのは、そんな上等な戦略ではなかった。
ただ、目の前で有能な人間が一人、過労という下らぬ死神に刈り取られようとしている。その事実が、どうしようもなく、不愉快だったのだ。
「クリス! この女を我が馬車へ運べ。至急、最高級の毛布と、カフェインレスのハーブティーを用意しろ」
「…………は?」
我が宰相が、胃薬でも切らしたような顔で固まった。無理もない。侵攻の朝である。皇帝が真っ先に下した勅命が、敵国令嬢への毛布の手配なのだから。
私は構わず、女を抱き上げた。羽根のように軽い。三日、まともに食っていない者の重さだ。
「我が懐にいる間、仕事のことは全て忘れろ。命令があるまで起きるな。……これは皇帝の勅命だ」
「……世界一の、ホワイト上司……?」
わけの分からぬ寝言を残して、女は私の腕の中で意識を手放した。安堵しきった顔だった。この腕を、地上で最も安全な場所だと信じ込んだような、無防備な顔で。
馬車が走り出す。向かいの席で、私は眠る女を眺めていた。
規則正しい寝息。ようやく血の色を取り戻していく頬。指を伸ばし、こめかみに残った汗の跡を拭ってやると、女は微かに眉を緩めた。
「へ、陛下……侵攻の、準備は……」
「それどころではあるまい」
私は、追ってきたクリスを一睨みで黙らせた。
――それどころではない、というのは、嘘偽りない本心だった。ただし、私自身が、なぜそう思うのかを、説明できずにいた。
一国を落とすことよりも、この女を一時間長く眠らせることのほうが、今の私には遥かに重大事だった。その理由に、私はまだ、名前を与えられずにいた。
血に塗れた二十年で、私が生まれて初めて手にした、合理では割り切れないもの。
――ただ一つ、決めたことがある。
この女を、二度と、あの『死人の顔』にはさせない。
その一点にだけは、なぜか、一片の迷いもなかったのだ。
第31話(閑話)、お読みいただきありがとうございました!
いつもはセシリア側からしか見えない「国境の邂逅」を、拾った皇帝の内側から描いてみました。合理の化身だったはずの陛下が、理由も分からぬまま毛布とハーブティーを手配してしまう――溺愛の、いちばん最初の一滴ですわ。
本編を読み返すと、この後の陛下の暴走(自動公文書スキャナーのプレゼント等)も、すべてこの朝から始まっていたのだと分かりますわね。
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