第2話:国境を越えた先には、血塗られた皇帝が待っていました
馬車の揺れが、心地よい子守唄に聞こえる……そんな優雅な状況ではありませんでした。
私は今、人生で最も幸せな「逃亡劇」の真っ只中にあります。
「御者さん! もっと飛ばして! 追手が来ないうちに国外へ!」
「は、はい、セシリア様! ですが、もうすぐ隣国の国境ですよ! あそこを通るのは危険だと……」
「いいのよ、この際どこでも! 仕事のない場所なら地獄でも天国でも一緒だわ!」
私が逃げ出した後のアウグスト王国……もとい、ブラック王国がどうなるか。
想像するだけで、三日三晩眠らずに済むほど楽しい気分です。
あの王子、公文書にサインが必要なことすら知らない可能性がありますからね。
一週間後には、王城は物理的に書類で埋もれていることでしょう。
(ああ、楽しみ。阿鼻叫喚の祖国を対岸の火事として眺める喜び……これが『自由』の味なのね)
私は馬車の窓から、朝日が昇り始める地平線を眺めていました。
国境さえ越えれば、私はただの無職。素晴らしい響きです。
だが、その希望は、突然の急ブレーキと共に断ち切られました。
「ひぃっ!? な、なんですか、あの軍勢は!!」
御者さんの悲鳴。
私も窓から身を乗り出し、前方の光景に絶句しました。
そこにあったのは、国境検問所……ではなく、地平線を埋め尽くさんばかりの漆黒の鎧を纏った軍勢でした。
そして、その中央。
巨大な黒竜を模した旗の下に、一人の男が立っていました。
燃えるような紅蓮の瞳、夜よりも深い黒髪。
その身から放たれる圧倒的な威圧感は、遠目からでも肌がヒリつくほどです。
「……アウグスト帝国の、レオンハルト陛下……?」
名前を聞くだけで赤ん坊が泣き止むと言われる、『血塗られた皇帝』。
冷酷無慈悲を絵に描いたような男であり、我が祖国が最も恐れている侵略者です。
(……え? もしかして、侵攻開始? タイミング、最悪じゃない!?)
せっかく手に入れた有給休暇、初日に戦死!?
冗談ではありません。私はまだ、一度も昼まで寝ていないのです!
帝国の騎士たちが、私たちの馬車を囲みます。
もはや逃げ場はありません。
やがて、軍勢が二つに割れ、皇帝本人がこちらへ歩み寄ってきました。
「……何者だ。この非常時に馬車を走らせるとは」
地を這うような低い声。
私は覚悟を決め、馬車を降りました。
ここで怯えても無駄です。私は三日間寝ていないのです。死への恐怖よりも、眠気の方が勝っています。
「失礼いたしました、陛下。私はセシリア・フォン・クロイツと申します。……たった今、祖国を婚約破棄され、ついでに追放されてきた無職の女でございます」
ドレスはボロボロ、髪は乱れ、目は虚ろ。
帝国の精鋭たちが息を呑むのが分かりました。恐らく、あまりの汚……いえ、凄惨な姿に驚いているのでしょう。
「セシリア・フォン・クロイツ……?」
レオンハルト陛下の鋭い視線が、私の顔を射抜きます。
品定めでもされているのか、あるいは首を飛ばす場所を選んでいるのか。
(ああ、もう……どうにでもして。殺すなら一撃でお願い。あ、できればその前に一時間くらい寝かせてくれると助かるんだけど……)
私の意識が、プツリ、と途絶えそうになったその瞬間。
「…………なんだ、その顔は」
皇帝の口から出た言葉は、予想外のものでした。
彼は大きな歩幅で私に詰め寄ると、その逞しい腕で私の肩を掴みました。
ひっ、殺される……!
「酷い隈だ。顔色も土色……いや、もはや死人のそれだな。貴様、最後にまともに眠ったのはいつだ?」
「……え? ……三日前、に、椅子の上で十分ほど……」
「…………」
レオンハルト陛下の紅蓮の瞳が、さらに激しく燃え上がりました。
激怒している。
ああ、王家の令嬢が不潔なままで現れたことが、彼の美学に反したのかもしれない。
「クリス!!」
「は、はい、陛下!」
後ろから、胃薬の瓶を握りしめたような顔色の悪い文官(恐らく宰相さん)が走ってきました。
「この女を我が馬車へ運べ。……至急、最高級の毛布と、カフェインレスのハーブティーを用意しろ」
「…………は?」
私と、宰相のクリスさんの声が重なりました。
「陛下……? 侵攻の準備は……」
「それどころではない! 目の前で有能な素材が、過労という名の死神に刈り取られそうになっているのだぞ! この女がいなくなれば、あの国の政務は止まる。ならば今、ここで私が救うのが最短の攻略法だ!」
皇帝陛下は、ヒョイ、と私を軽々と抱き上げました。
お姫様抱っこ。……というよりは、獲物を回収する猟師のような力強さです。
「おい、セシリアと言ったか。貴様に命令を下す」
私は呆然と皇帝を見上げました。
殺されない? それどころか、毛布?
「我が懐にいる間、仕事のことは全て忘れろ。命令があるまで起きるな。……これは皇帝の勅命だ」
……ああ。
この男は、血も涙もない皇帝だと思っていましたが。
(もしかして……世界一の、ホワイト上司……?)
レオンハルト陛下の腕の中、その温かさと何とも言えない心地よさに、私の意識は急速に遠のいていきました。
婚約破棄してくれたルイス王子、本当にありがとう。
私、初めて、頼りになるサイン(勅命)を貰いました……。
第2話、お読みいただきありがとうございました!
逃亡先でセシリアを待ち構えていたのは、まさかの「ホワイト上司」すぎる皇帝陛下でした。
過労令嬢と、有能な人材を愛してやまない皇帝の、ちょっと噛み合わない溺愛ライフの始まりです。三日寝ていないセシリアに下された「皇帝の命令(休息)」、これぞ究極の福利厚生(?)ですわね!
次回、第3話「冷酷皇帝は、疲労困憊の令嬢を寝かしつけたい」。
セシリアさんは、無事に安眠(公務)を手に入れることができるのか……!?
もし「陛下、もっと有能令嬢を甘やかして!」と思ったら、最後にブックマーク(有給申請)や評価(ボーナス支給)をお願いいたしますわ。
皆様の応援が、セシリアのさらなる「ホワイトな福利厚生」を充実させるエネルギーになりますの!




