チケット
療養期間を終えたエデンは、久しぶりにECOへ戻ってきていた。ECOアモリス支部の教室。白い壁と無機質な机が並ぶ室内には、エデン、ジエル、亜爆の三人しかいない。窓の外では訓練場の音が微かに聞こえている。だが、この教室の中は比較的静かだった。
「で、体はもう平気なのか?」
机に腰掛けながらジエルが聞く。
「まぁね」
エデンは軽く肩を回した。
「まだ少し痛むけど、前よりは動けるよ」
三人は軽い会話をする。その時だった。
「ねぇ、ちょっといいかな?」
教室の扉が開く。入ってきたのは天記だった。
「あ、天記さん」
ジエルが振り返る。
「どうしたんすか?」
天記は柔らかい笑みを浮かべながら、ポケットへ手を入れた。そして、四枚のチケットを取り出す。
「最近色々頑張ってたからさ」
そう言って、ジエルへ差し出した。
「これで旅行でもしておいでよ」
「旅行?」
ジエルが受け取る。そこには大きく、《豪華客船 クローズフェザー号》と書かれていた。
「おぉ……」
エデンも横から覗き込む。
「クロウ島行きって書いてある」
「クロウ島?」
亜爆が聞き返す。すると天記が説明した。
「最近リゾート開発が進んでる島だよ。海が綺麗でね、ホテルもかなり評判いいらしい。そのチケットがあれば宿泊費も込みだよ」
「豪華ですね」
亜爆が少し驚く。ジエルはチケットを眺めながら聞いた。
「天記さん、これどこで手に入れたんすか?」
「くじ引き」
「……は?」
思わず変な声が出る。天記は苦笑した。
「僕も驚いたよ」
エデンは改めてチケットを見る。豪華客船。リゾート地。少しだけ興味が湧いた。療養続きだったこともあり、こういう話は久しぶりだった。するとジエルが聞く。
「天記さんは行かないんすか?」
「僕はいいよ」
即答だった。
「君たちの方が必要そうだし」
その言葉に、ジエルは少し黙る。視線が下がる。そして小さく息を吐いた。
「……すんません、天記さん」
チケットを見つめながら言う。
「俺、旅行なんてしてる場合じゃないんすよ」
空気が少し変わった。ジエルの表情には、またあの焦りが戻っている。
「エイリワスを倒せるぐらい強くならなきゃいけねぇ」
低い声。レインダ村での敗北が、まだ心に残っていた。兄を殺した相手。なのに、自分は何もできなかった。その悔しさが、ずっと胸に残っている。そんなジエルを見て、天記は静かに口を開いた。
「休養は大事だよ……特に君たちにはね」
穏やかな声。だが、その言葉には重みがあった。
「それに――」
天記の目が、静かにジエルを見る。
「エイリワスは、君の兄……ゲートの能力を使っている」
その瞬間。ジエルの目が鋭くなる。教室の空気が静まり返った。
「焦った状態で戦えば、逆に付け込まれる可能性が高い」
天記は続ける。
「今必要なのは、無理に力を求めることじゃない」
静かな口調だった。
「一度、頭を冷やすことだよ」
ジエルは何も言わない。だが、否定もしなかった。亜爆が後頭部を掻く。
「まぁ……実際、ここ最近ずっと戦いっぱなしでしたしね」
「うん」
エデンも頷く。事件が起きたり、戦かったり、負傷したり、エデン達には気を抜く時間がほとんどなかった。天記はそんな三人を見回し、小さく笑った。
「たまには、休むのも任務のうちだよ。僕は行かないから、残り一人は他の人誘って行ってね」
そう言い残し、天記は教室を後にした。扉が静かに閉まる。教室の中には、エデン、ジエル、亜爆の三人だけが残された。少しの沈黙。エデンは手元のチケットを見つめながら、小さく呟く。
「残り一人か……誰誘おう」
四枚あるチケット。エデン、ジエル、亜爆で三人。あと一枚余っている。
「まぁ、まだ時間はあるんで」
亜爆は立ち上がる。
「ゆっくり考えときましょ」
そして、軽く伸びをした。
「ちょっと一服してきます」
そう言って、教室から出ていく。再び静かになる室内。ジエルは椅子に深く座りながら、改めてチケットを見る。豪華客船。リゾート。今の自分には似合わない言葉だと思った。だが。
「……行くか」
ぽつりと呟く。エデンが見る。ジエルは鼻で笑った。
「こんなチャンス、めったにねぇしな」
その表情には、少しだけいつもの軽さが戻っていた。完全に吹っ切れてはいない。それでも、ほんの少しだけ気持ちが緩んでいる。エデンはそんなジエルを見て、小さく安心した。
一方。
ECO支部の廊下を、天記は静かに歩いていた。窓から差し込む夕陽が、長い影を作っている。誰もいない廊下。足音だけが響く。その時。ふと、頭の中にさっきの言葉が蘇った。――『天記さんは行かないんすか?』ジエルの言葉。何気ない質問。だが、その言葉が妙に胸へ残っていた。天記は少し目を伏せる。
「……僕には」
小さく呟く。
「休む資格はないんだ」
その声は、誰にも届かないほど弱かった。天記はポケットから小さな手帳を取り出す。年季の入った黒い手帳。そこには任務の日程や報告事項が細かく書き込まれている。ページをめくる。
「えーと……次の任務は……」
その瞬間だった。
「……うっ」
天記の身体が小さく揺れる。ポタリと、赤い液体が床へ落ちた。口元から、血が垂れている。
「……っ」
天記は咄嗟に口を押さえた。呼吸が乱れる。視界が僅かにぼやける。壁へ手をつき、身体を支える。
「……限界が……近い……」
かすれた声。だが。その目はまだ死んでいなかった。
「まだだ……」
天記は無理やり呼吸を整える。震える手で血を拭う。そして、何事もなかったように再び歩き出した。ふらつきながら。それでも止まらない。夕陽に照らされた廊下を、天記は一人で進んでいった。




