過剰適応
訓練室の空気は、先ほどまでより少しだけ穏やかになっていた。すべてを話したからこそなのか、エデンの胸の中にはまだ苦しみこそ残っているものの、ほんのわずかに整理された感覚があった。完全に前を向けたわけじゃない。傷が消えたわけでもない。それでも、ただ一人で抱えていた時よりは、少しだけ違う。エデンはゆっくり立ち上がる。
「……そろそろ戻るよ」
身体はまだ本調子じゃない。長く抜け出していれば、さすがに見つかる可能性も高い。ジエルもそれを止めることはせず、軽く手を上げた。
「おう。今度こそちゃんと休めよ」
「分かってるって」
そう返しながら、エデンは訓練室の出口へ向かう。
「そういや、エデン」
不意に、ジエルが何かを思い出したように声をかけた。
エデンが振り返る。
「何?」
ジエルは少しだけ真面目な顔になる。
「お前、“過剰適応”って知ってるか?」
「……オーバー、ダプト?」
聞いたことのない単語だった。エデンは眉をひそめる。ラベジニウム。能力。それに関係しているのはなんとなく分かる。だが、その名称自体は初耳だった。
「なにそれ?」
ジエルは壁にもたれながら、簡潔に答える。
「ラベジニウムと、めっちゃ適応したらなる状態」
「……適応?」
「能力が強化される」
その言葉に、エデンの目がわずかに変わる。能力強化。それは単純な出力上昇なのか。それとも別次元の変化なのか。ジエルは続ける。
「ECOの中でも出来てるやつは少ねぇ」
その希少性は、言葉以上に重い。
「俺も出来てない」
その一言に、エデンは少し驚いた。ジエルほどの実力者でも、まだ至っていない領域。つまりそれは単純な努力だけでは届かない何か。
「……そんなの、あるんだ」
ぽつりと漏れる。ジエルは肩をすくめる。
「詳しい理屈は俺も知らねぇけどな。天記さんならもっと知ってるかもな」
エデンは黙る。過剰適応。その言葉が、頭の中で静かに残る。
(……もっと強くなれる)
自然と、自分へ置き換えてしまう。今の自分。限界を超えたリミット。足りなかった力。もし、その先があるなら。
「……ありがと」
短くそう言い、エデンは訓練室を後にした。扉が閉まる。廊下を歩きながらも、エデンの思考は先ほどの言葉に囚われていた。ラベジニウムとの、さらなる適応。
(……俺も、なれるのかな)
その問いに、まだ答えはない。けれど。“もっと強くなる”と決めた今、その未知の領域は確かにエデンの中へ新たな目標として刻まれつつあった。
訓練室。静かになった室内で、ジエルは一人軽く肩を回していた。
「……さて」
自分もそろそろ戻るか。そう思った、その時。
「やぁやぁ~」
間延びした声。訓練室の入口側から、不意に聞こえてくる。ジエルが眉をひそめ、そちらを見る。そこに立っていたのは――見慣れない男だった。長身。左目は前髪で隠れている。右腕は、ない。袖の片側が空虚に揺れていた。だが、その欠損を悲壮に感じさせない妙な存在感がある。アロハシャツ。その上に無造作に羽織られたコート。季節感も統一感もよく分からない。なのに、不思議と“その人間らしさ”として成立している。
「キミが、ジエル君かな~?」
語尾の伸びる、掴みどころのない声。だが、その一言だけで分かる。
――強い。
ジエルは自然と姿勢をわずかに変える。
「……誰だよ、あんた」
男はにこやかに笑った。
「おっと、ごめんね~」
わずかに首を傾ける。
「ボクはポトス」
その名を聞いた瞬間。ジエルの脳裏に、一度だけ聞いたことのある情報が浮かぶ。ウバク支部の支部長。
「……ウバク支部長?」
「そそ、ちょっと用事があってね~」
ポトスは笑みを崩さない。
「今度、合同任務があってねぇ~」
まるで散歩にでも誘うような調子だった。
「ジエル君、興味ないかな~って」
「……合同任務?」
ジエルの眉がわずかに動く。ECOにおける合同任務。それは単なる応援要請とは違う。複数支部、あるいは複数の高ランク隊員を必要とする、通常より重要度の高い案件。規模。危険度。あるいは“特殊性”。少なくとも、気軽な誘い文句で済む内容じゃない。ジエルの表情が少しだけ引き締まる。
「どこの任務すか?」
その問いに、ポトスはにこりと笑った。
「エリア・オズだよ~」
空気が、変わった。その単語が発せられた瞬間。ジエルの思考が、一瞬止まる。
「……知ってる?」
ポトスの声は相変わらず軽い。だが、ジエルにとってはその問い自体が意味を持たなかった。知らないわけがない。
「……エリア・オズ」
その言葉が、ジエルの口から低く漏れる。次の瞬間。ジエルは、無意識にポトスへ一歩――いや、二歩近づいていた。
「エリア……オズ?」
その声は、さっきまでとは明らかに違った。軽さも、余裕もない。確認。
「それって……」
ポトスは、その反応を予想していたかのように穏やかに頷いた。
「そ」
そして、笑みを浮かべたまま告げる。
「キミの故郷」
一拍。
「レインダ村さ」
「……行く」
短く。はっきりと。ポトスは少しだけ目を細める。
「お」
ジエルは、まっすぐ前を見る。
「俺が行く」
その言葉は、任務への返答であると同時に。故郷への再訪を、自ら受け入れる覚悟でもあった。




