怖さを抱えて前に進む
訓練室には、先ほどまで響いていた金属音が嘘のように消えていた。破壊された四つのドラム缶が並んでいる。
どれも大きく形を変え、穴が開き、役目を終えた姿になっていた。四人は荒い呼吸を繰り返しながら、それぞれのドラム缶を見つめている。
フルトは特に、目の前にある自分のドラム缶から視線を離せなかった。自分が壊した。それが、まだ信じられない。これまでなら、剣を振ることすら怖くなっていた。ましてや、何かに向かって剣を叩きつけるなんて、考えただけで昔の記憶が蘇っていた。
けれど今は違う。怖かった。何度も手を止めそうになった。それでも最後まで剣を振り続けた。そんなフルトのもとへ、血刃がゆっくりと歩いてくる。
フルトは顔を上げた。
血刃は破壊されたドラム缶を一瞥すると、フルトへ視線を戻す。
そして、静かに尋ねた。
「どうじゃ?」
フルトは黙って血刃を見る。
「怖くなくなったか?」
その問いに、フルトはすぐには答えなかった。
木剣を握ったまま、自分の手を見る。
まだ少し震えている。心臓も速い。先ほど剣を振っていた時の感覚も、はっきりと残っている。
そして何より、剣を振ることへの恐怖が完全に消えたわけではなかった。
フルトはしばらく考えた。やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「……やっぱり、まだ怖いです」
血刃は何も言わなかった。
フルトもそれ以上、すぐには言葉を続けられなかった。
訓練室に静かな時間が流れる。
けれど、その沈黙は以前のような重苦しいものではなかった。
フルトは木剣を見つめる。
そして、少しだけ握り直した。
「……でも」
血刃が目を向ける。
フルトは顔を上げた。
その表情には、まだ不安が残っている。それでも、以前とは違うものがあった。
「怖くても……」
一度、言葉を止める。
自分の中にある気持ちを確かめるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「前に進みたいと思えました」
その言葉を聞いた血刃は、しばらくフルトを見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……そうか」
短い言葉だった。
だが、その声には確かな満足が込められていた。
エデンもフルトの言葉を聞き、静かに笑う。
緋山は嬉しそうに頷き、シオンも小さく息を吐いた。
フルトはもう一度、木剣を見る。
怖さは消えていない。
これからも、きっと怖いと思うことはある。
戦うことに迷うこともあるだろう。それでも――
怖いからといって、立ち止まらなくてもいい。
そのことを、フルトは今日初めて実感していた。
血刃は、フルトの言葉を聞いたあともしばらく黙っていた。
破壊されたドラム缶と、その前に立つフルトを交互に見つめる。
やがて、何かを思い出すように目を細めた。
「……実はな」
フルトが顔を上げる。
血刃はゆっくりと口を開いた。
「お前の母、アンネは……恐怖を乗り越えたわけじゃないんじゃ」
「……え?」
フルトは思わず聞き返した。
血刃は続ける。
「お前のように、怖さを抱えて……それでも前に進むことを選んだ」
その言葉を聞いた瞬間、フルトの表情が変わった。
ずっと、自分は弱い人間なのだと思っていた。
怖がること自体が、自分の弱さの証なのだと思っていた。
だからこそ、恐怖をなくさなければ戦えないのだと思っていた。
けれど、血刃の話が本当なら。
母も同じだった。
怖かった。
それでも、前へ進んだ。
血刃は遠い記憶を思い返すように、静かに目を伏せる。
「あいつは……いい奴じゃった」
その声には、長い年月を経ても薄れることのない思いが込められていた。
フルトは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりとうつむく。
木剣を握る手にも、少しだけ力が入った。
そんなフルトの様子を、エデンは黙って見ていた。
先ほどまでのフルトとは、どこか違う。
ただ母のことを聞いて喜んでいるわけではない。
その表情には、寂しさのようなものがあった。
エデンは何となく察した。
フルトにとって、母親の存在は大きい。そして――
その母はもう。
エデンはあえて何も聞かなかった。
今は、フルト自身が話すまで待つべきだと思った。
訓練室には、再び静かな時間が流れていた。
四人の前には、破壊されたドラム缶がある。
そしてその傍らには、一本の木剣を握ったフルトが立っている。
怖さを抱えたまま、それでも前へ進もうとしている姿は、どこか血刃が語ったアンネの姿と重なって見えた。
血刃はしばらくフルトを見つめていたが、やがて表情を切り替えた。
先ほどまでのどこか遠い目は消え、いつもの厳しい隊員の顔に戻る。
「……さっ、次じゃ次。まだまだ続けるぞ」
「えっ?」
フルトが顔を上げる。
血刃は訓練室の端に置いていたケースへ歩いていく。
その中から、それぞれのラベジニウムを取り出した。
「ほれ」
エデンたちは自分のラベジニウムを受け取る。
「ありがとうございます」
エデンが受け取ったラベジニウムを確認する。
再び手元へ戻ってきたことで、身体にいつもの感覚が戻ってくる。
緋山やシオンも同じように自分のラベジニウムを確認していた。
フルトだけは、自分のラベジニウムを見つめながら少し複雑そうな顔をしている。
そんな四人を確認すると、血刃はドラム缶をどかして、今度は訓練用の木刀を一本手に取った。
木刀を軽く振る。ヒュッ、と空気を切る音がした。
「今度はわしとの試合じゃ」
「……試合?」
シオンが聞き返す。
血刃は木刀を肩に担いだ。
「そうじゃ」
そして、四人を見渡す。
「ラベジニウムを使っていい」
その言葉に、エデンたちの表情が変わった。
先ほどまでとは違う。
今度は能力を使える。
普段の戦いに近い条件だ。
だが、血刃はさらに続ける。
「四人でわしと戦っていいぞ」
「四人で……?」
緋山が目を丸くする。
血刃は平然としていた。
「それぐらいでちょうどいい」
その言葉に、エデンは血刃を見つめる。
目の前にいるのは、長年ECOで戦い続けてきた隊員。
その実力がどれほどのものなのか、エデンにはまだ分からない。
しかし、血刃が自分たち四人を相手にしても構わないと思っていることだけは伝わってきた。
「面白そうです」
緋山が棍棒を握る。
シオンも槍を構える準備をする。
エデンも拳を握った。
その一方で――
フルトだけは、木刀を持つ血刃から目を逸らしていた。
先ほどドラム缶を壊した時とは違う。
今度の相手は、ただの金属ではない。
目の前にいるのは人間だ。
しかも、血刃は刀を扱う隊員。
木刀とはいえ、人に向けて振ることになる。
フルトの手が僅かに震えた。
「……」
血刃がそれに気づく。
「どうした?」
フルトはしばらく黙っていたが、小さく答えた。
「……人に剣を向けるのは、怖いです」
その言葉に、エデンたちもフルトを見る。
フルトは木剣を握ったまま、俯いていた。
先ほどまでは、恐怖を抱えながらもドラム缶へ剣を振ることができた。
けれど、人間を相手にするとなれば話は違う。
剣の向こう側に、人がいる。
その事実が、フルトの中に新たな恐怖を生んでいた。
血刃は何も言わず、そんなフルトを見つめる。
そして、木刀をゆっくりと構えた。
「……そうか」
短い言葉だけが、訓練室に響いた。




