母と同じ
血刃は訓練室の中央に立つフルトをじっと見つめていた。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、訓練室には静かな空気が流れている。
エデン、緋山、シオンも少し離れた場所から二人の様子を見ていた。
血刃は周囲を見回すと、訓練室の壁際へ視線を向けた。
そこには訓練用の木剣が何本か立てかけられている。
血刃はその中から一本を手に取った。
「フルト」
「は、はい」
フルトが顔を上げる。
血刃は木剣を軽く持ち上げると、フルトへ向かって投げた。
「お前はこれを振ってみろ」
「えっ」
フルトが慌てて両手を出す。
木剣は回転しながら飛んできたが、フルトはなんとかそれを受け止めた。ずしりと両手に重さが伝わる。
フルトは何も言わず、手元の木剣を見つめた。木で作られた簡素な剣。
本物の刀とは違う。それでも、剣という形をしたものを手にした瞬間、フルトの表情が少しだけ変わった。先ほどまでの怯えた様子とは違う。どこか懐かしそうに、そして寂しそうに木剣を見つめている。血刃はそんなフルトを見ながら言った。
「構えろ」
「……はい」
フルトは木剣を握り直した。
そして、ゆっくりと足を開く。
身体の向きを整え、剣を構える。
その動きは、先ほどまでのフルトからは想像できないほど自然だった。
エデンは目を細める。
(……様になってる)
初めて木剣を渡された人間の構えには見えない。
身体の軸。
足の位置。
剣を握る手。
どれも不自然なところがなかった。
エデンの頭の中から、ケイの声が響く。
『初めて触れたようには見えない』
(やっぱりケイもそう思う?)
『ああ』
エデンは黙ってフルトを見つめる。
一方、緋山は驚いたように目を輝かせていた。
「すごい、剣使えるんだ!」
シオンも意外そうな顔をする。
「使ったことあるの?」
フルトは二人の質問に、少しだけ頷いた。
「まあ......はい」
その返事には、どこか歯切れの悪さがあった。
フルトは木剣を握ったまま、自分の手元へ視線を落とす。
「だって僕の家系、ラング家は……」
一瞬だけ言葉を止める。
そして、静かに続けた。
「剣の名家と言われてますから」
その言葉を聞いたエデンは、昨日のことを思い出す。
血刃がフルトの苗字を聞いた瞬間に反応したこと。
そして、フルトを鍛えたいと言ったこと。
やはり血刃とラング家には何か繋がりがある。
だが、フルト自身はその家名を口にした途端、少し悲しそうな目をしていた。
誇らしげに語っているようには見えない。
むしろ、その名前を背負うことに何か思うところがあるようだった。
シオンもその表情に気づいたのか、それ以上は何も聞かなかった。
緋山も口を閉じる。訓練室に、短い沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは血刃だった。
「……そうじゃな」
血刃は小さく呟く。
そして、フルトの構えを見ながら口元を緩めた。
「ならば、話は早い」
フルトが顔を上げる。
「振ってみろ」
血刃の声が訓練室に響く。
「わしの合図で一振りじゃ」
フルトは木剣を握り直した。
先ほどまで浮かんでいた悲しげな表情が消える。
目の前の木剣だけを見る。
「……はい」
血刃はフルトの姿勢を確認する。
そして――。
「振れ!」
その声と同時に、フルトの身体が動いた。
木剣が空気を切る。一閃。鋭い音が訓練室に響いた。
エデンは思わず目を見開いた。
緋山も驚いている。
シオンも言葉を失っていた。
そして血刃だけが、満足そうに目を細めていた。
フルトは振り切った姿勢のまま、木剣を見つめる。自分でも少し驚いているようだった。まるで身体が勝手に動いたかのように。その手に握られた木剣は、フルトにとってただの訓練道具ではなかった。
その剣を握ることが当たり前だった頃の記憶。そして、その家の名前を背負っていた頃の記憶。それらが一瞬だけ、フルトの中に蘇っていた。フルトは静かに木剣を下ろす。
血刃はそんな彼を見つめながら、何かを確信したように呟いた。
「……やはりな」
フルトはその言葉の意味を知らない。
ただ、自分の手に残る木剣の感触だけを感じていた。
フルトはしばらく木剣を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
そして、両手で持っていた木剣を急いで血刃へ差し出す。
「け……剣はいいです」
血刃は差し出された木剣を受け取る。
「家でも落ちこぼれだったし……」
フルトは俯いたまま続けた。
「ラング家だから、剣の腕に期待してたみたいですけど……僕には使えません」
その言葉には、諦めにも似た響きがあった。
先ほど一振りした時の姿は、確かに様になっていた。
エデンたちから見ても、初めて剣を握った人間には見えなかった。
それでもフルト自身は、自分に剣の才能があるとは思っていない。
むしろ、剣を振ることそのものを避けているようだった。
そんなフルトを見て、血刃は眉をひそめる。
「何を言っとる」
「……え?」
血刃は木剣を手にしたまま、フルトをまっすぐ見つめた。
「そもそもわしは、お前の実力には少しも期待していない」
「……」
あまりにもはっきりと言われ、フルトは言葉を失う。
緋山もシオンも、思わず血刃を見る。
しかし血刃の表情には、フルトを馬鹿にしているような様子はなかった。
ただ、本当にそう思っているだけだった。
血刃は続ける。
「わしは、お前があいつに似とるから鍛えようと思ったんじゃ」
「……あいつ?」
フルトが顔を上げる。
その名前を聞いた瞬間、血刃の表情が少しだけ柔らかくなった。
「お前の母、ラング・アンネじゃよ」
「……っ」
フルトの目が大きく開かれる。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が強く揺さぶられた。
母。ラング・アンネ。
フルトにとって、それは決して遠い存在ではない。けれど、ECOに入ってからも母について詳しく話したことはほとんどなかった。
フルトがECOに入った理由。それは、自分と同じように剣の扱いがうまくなかった母が、それでもECOの隊員として戦っていたことを知ったからだった。
ラング家。剣の名家。
そんな家に生まれながら、フルトは剣を使うことに自信を持てなかった。
周囲から期待されることが怖かった。家名に見合わない自分を、何度も意識させられた。
だからこそ、母が剣を使わずにECOで戦っていたことを知った時、フルトは一つの道を見つけたような気がした。
ECOなら。ECOの隊員なら。剣を使えなくてもいい。剣以外の力で、人を守ることができる。それが、フルトがECOへ入る理由の一つだった。
その母を、目の前の血刃は知っている。しかも、ただ知っているだけではない。
「お母さんと……会ったことがあるんですか?」
フルトの声が少し震える。
血刃は当然のように頷いた。
「会ったも何も」
血刃は木剣を肩に担ぐ。
「アンネはわしの弟子じゃった」
「……え?」
フルトは完全に固まった。
エデンたちも驚いていた。
昨日から続いていた血刃とラング家の繋がり。
それが今、はっきりと形になった。
血刃はフルトを見ながら、昔を思い出すように目を細める。
「お前と同じようなやつじゃったぞ」
「母さんが……僕と?」
「ああ」
血刃は頷く。
「初めて会った時は、あいつも戦うのが怖いって言っとったの」
その言葉を聞いた瞬間、フルトは何も言えなくなった。
自分と同じだった。
剣の名家に生まれながら、戦うことを怖がっていた。
それでもECOに入り、戦っていた。
フルトの胸の中で、何かがゆっくりと動き始める。
自分がずっと抱えていた疑問。
なぜ母は、あんなにも強く生きられたのか。
なぜ自分は、母のようになれないのか。
その答えを、目の前の男が知っている。
血刃はそんなフルトを見つめていた。
「だから、お前を鍛える」
「剣の腕を磨くためじゃない」
血刃は木剣を握り直す。
「アンネと同じように、怖くても前へ進めるようにな」
フルトは俯いた。
母も、最初から強かったわけではなかった。
自分と同じように、戦うことを怖いと思っていた。
その事実が、今まで知らなかった母の姿を少しだけ近く感じさせた。
そしてフルトは、もう一度血刃を見る。
先ほどまでとは違う目で。
「……母さんは」
フルトは静かに尋ねた。
「どうやって、怖さを乗り越えたんですか?」
血刃は少しだけ笑った。
「それを知りたいなら――」
木剣を肩から下ろす。
「二日間、みっちり付き合ってもらうぞ」
フルトは息を呑んだ。
怖い。
やっぱり怖かった。
けれど今は、その恐怖の先にいる母の姿を知りたいと思った。




