老兵
緋山は自分の拳を見つめていた。強く握りしめた拳は、わずかに震えている。
それは疲労によるものなのか、それとも別の感情によるものなのか、エデンには分からなかった。
ただ、その拳を見つめる緋山の目だけは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「エイリヲルは私の故郷の仇なんです」
静かな声だった。けれど、その言葉の奥には、長い間抱えてきたものが滲んでいた。故郷。そこで暮らしていた人々。そこで過ごしていた時間。それらを奪った存在が、今もどこかで生きているかもしれない。その事実を知った直後なのだ。
「だから....」
緋山はそこで言葉を止めた。何を言おうとしているのか。
エデンには、なんとなく分かっていた。強くなりたい。仇を討ちたい。自分の手で決着をつけたい。そんな思いが、緋山の中にあるのだろう。エデンは緋山の横顔を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「なら強くならなきゃね」
「......はい」
それ以上、二人は言葉を交わさなかった。
訓練室には、二人が動く音だけが響いていた。
拳が空気を切る音。床を踏み込む音。呼吸が乱れる音。
緋山は何度も拳を繰り出し、エデンもそれに合わせるように身体を動かしていく。先ほどまでよりも明らかに緋山の動きは激しくなっていた。一撃一撃に力がこもっている。まるで、自分の中にある何かを拳に乗せているようだった。
エデンはそんな緋山を止めなかった。今は止めるべきではないと思った。強くなりたいと思う気持ちを、無理に抑える必要はない。ただ、焦りすぎれば足元をすくわれる。それだけは、エデン自身が何度も経験してきたことだった。しばらくして、二人は動きを止めた。
「......」
「......」
訓練室に沈黙が落ちる。
緋山は荒い息を整えながら、再び自分の拳を見つめた。その姿を見ているうちに、エデンの脳裏に別の人物が浮かんできた。
ジエル。少し前まで、この場所にいた仲間。
いつも怒っているように見えて、誰よりも真っ直ぐで、誰かが傷つけば迷わず前に出る男。
そんなジエルもまた、故郷を奪われていた。エイリワスによって。ジエルの家族。そして、彼が大切にしていたもの。エイリワスはそれらを奪った。
ジエルはその仇を追い続け、そして最後には、自分一人でエイリワスと戦いに行った。その戦いのあと、ジエルはいなくなった。生死すら分からない。
エデンはずっと、ジエルは生きていると信じていた。今もその気持ちは変わっていない。けれど、目の前で故郷の仇について語る緋山を見ていると、どうしてもジエルのことを思い出してしまう。
似ている。そう思った。奪われたものは違う。生きてきた場所も、経験してきたことも違う。それでも、故郷を奪った存在を前にして、それでも前に進もうとしているところだけは、どこかジエルと重なって見えた。
エデンは拳を握った。
「俺ももっと強くならないとな.....誰もいなくならないように」
その呟きは、緋山には届かなかった。
緋山は再び訓練に戻っていた。
エデンもまた、その隣に立つ。
二人はそれ以上何も言わず、再び拳を振るい始めた。
一方その頃。
教室には、重い沈黙が残っていた。
ホワイトが話した内容は、誰にとっても簡単に受け止められるものではなかった。
未来を見ることができる。
その未来には、世界がエイリ星人によって大きな混乱に陥る可能性がある。
そして、その未来を変える鍵になるかもしれない人物がいる。
エデン。
亜爆。
ジエル。
そして、今はドロイもその可能性の一人だという。
さらに――エイリヲル。
三十年前にECOが大きな犠牲を払って退けた存在。
そのエネルギーによって、現在のエリア・デイゴンが生まれた。
そこに今もエイリヲルがいる可能性がある。
あまりにも多くの情報が、一度に与えられていた。
シオンはしばらく何も言わず、机の上に置かれた自分の手を見つめていた。
「未来が分かる....そんなことあるんだ」
独り言のような声だった。
隣にいたフルトも、何かを考えるように俯いている。
そして、小さく呟いた。
「エイリヲル...」
その名前を口にしただけで、教室の空気が少しだけ変わった気がした。
亜爆は椅子から立ち上がる。
「取り敢えず今日は寮に戻ります」
いつもの落ち着いた口調だった。
だが、普段より少しだけ声が低かった。
「色々考えることもありますし」
そう言って、亜爆は教室を出ていく。
ドロイもその後を追うように立ち上がった。
「俺も戻ります」
「さようなら」
亜爆が手を上げる。
ドロイも軽く頭を下げると、二人はそのまま廊下へ消えていった。
しばらくして、ナロクとグラスもそれぞれ教室を出ていく。
残されたシオンとフルトは、静かになった教室を見回した。
先ほどまで何人もの隊員がいた場所が、急に広く感じられる。
シオンは小さく息を吐いた。
「ぼくたちも帰る?」
「はい」
フルトが頷く。
二人は席を立ち、教室の出口へ向かった。
シオンが先に扉へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
ガチャッ。
扉が外側から開いた。
「えっ」
シオンが避ける間もなく、入ってきた人物と肩がぶつかった。
「痛っ」
シオンの身体が後ろへ倒れる。
床に手をつき、そのまま尻餅をついた。
「シオンさん、大丈夫ですか?」
フルトがすぐに駆け寄る。
「う、うん。大丈夫」
シオンは手をつきながら立ち上がろうとした。
そして、フルトと共に顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
白髪交じりの短髪。顔には深いしわが刻まれている。背筋は完全に曲がっているわけではない。むしろ、年齢を感じさせながらも、その立ち姿には妙な芯があった。長年の戦場を生き抜いてきた者だけが持つような、静かな圧。身につけているECOの制服にも、長い年月を感じさせる雰囲気があった。まさに老兵。そんな言葉が似合う男だった。
老人は倒れたシオンを一瞥すると、特に慌てる様子もなく口を開いた。
「ここにおったか...」
「へ?」
フルトは気の抜けた声を出した。
老人はフルトを見つめる。
その目は鋭かった。
だが、敵意があるわけではない。
何かを確かめるような目だった。
フルトはその視線に少し戸惑いながら、老人の姿を改めて見る。
そして、あるものに気づいた。
老人の腰。そこには一本の刀が下げられていた。
「刀?」
思わず声に出す。
ECOの隊員が刀を持っている。それだけなら、珍しいことではないのかもしれない。だが、その刀には不思議な存在感があった。長い年月を共にしてきた相棒。そんな雰囲気を感じさせる。老人はフルトの視線に気づくと、腰の刀へ一度目を向けた。そして、再び二人を見る。
「わしの名前は血刃虎三、アモリス支部、ここの隊員じゃ」
「血刃....虎三」
フルトはその名前を口の中で繰り返した。
シオンも老人――血刃虎三をじっと見つめる。
ただの隊員ではない。そんな気がしていた。言葉数は少ない。表情もほとんど変わらない。それなのに、そこに立っているだけで、長い時間を生きてきた人間なのだということが伝わってくる。
シオンは少し警戒しながら尋ねた。
「一体何のためにここに?」
血刃は一瞬だけ黙った。
窓から差し込む光が、白髪の間を照らしている。
そして、腰に下げた刀へ手を添えることもなく、淡々と答えた。
「任務じゃ」
「任務?」
シオンが聞き返す。
血刃は頷いた。
「そうじゃ」
それだけだった。
詳しいことは何も話さない。
シオンは少し困ったように血刃を見る。
フルトも同じように立ち尽くしていた。




