勇気がなければ
グラスは、悲鳴の聞こえた方向へ走り出そうとした。けれど――
一歩目を踏み出したところで、足が止まった。
「……」
胸の奥に、迷いが生まれる。
(オレが行っても勝てるのか?)
さっきまで勉強をしていた。訓練もあまりしていない。戦闘経験も少ない
それに、ドロイはまだ戻ってきていない。
(ドロイさんを待った方が……)
グラスは振り返る。ドロイが向かった店の方向。戻ってくるまで待っていれば、二人で対応できる。そのほうが安全だ。無理に一人で向かう必要はない。
「……」
けれど、逃げていく人々の姿が目に入った。
泣きながら親の手を握る子供。必死に走る人。何が起きているのかも分からず、立ち尽くしている人。
さっきまで、自分たちと同じように穏やかな時間を過ごしていた人々だった。グラスは唇を噛んだ。
(いや、行かないと……)
頭では怖いと思っている。自分が敵うかどうかも分からない。それでも、目の前で人が襲われようとしている。それを知っていながら、ただ待っていることはできなかった。
(……そうだ)
グラスの目つきが変わる。
「オレには、これがある」
ラベジニウムが淡く輝いた。そして――
「分身」
グラスの隣に、もう一人のグラスが現れた。姿も服装も、すべて同じ。
突然現れた分身は、グラスと同じ方向へ顔を向ける。
「行ってくれ」
分身は頷いた。そして、悲鳴の聞こえた方向へ走り出していく。その背中を見送りながら、グラスは小さく息を吐いた。
「よし、この間にドロイさんを……」
自分はドロイを呼びに行く。分身には現場へ向かってもらう。これなら、時間を無駄にしない。グラスはそう判断し、ドロイが向かった店へ走ろうとした。
――その瞬間だった。
「――――!」
別の場所から、再び悲鳴が上がった。グラスが振り向く。
「……え?」
先ほどとは違う方向。人々が逃げていた場所とは、明らかに離れている。そして――
建物の陰から、エイリ星人が姿を現した。
「噓だろ……」
グラスの足が止まる。エイリ星人は周囲を見回す。その近くには、まだ逃げ切れていない人々がいた。
「きゃああっ!」
「こっちに来るな!」
人々が慌てて逃げ始める。
グラスは状況を瞬時に整理した。
(悲鳴が聞こえた場所とは違う場所から出て来た……)
先ほど分身を向かわせた場所とは別の場所。つまり――
(おそらく違う個体……)
一体ではない。それを理解した瞬間、グラスの背筋に緊張が走った。目の前のエイリ星人が、人々へ向かって動き出す。逃げ遅れた人がいる。このままでは間に合わない。
グラスは拳を握った。ドロイを呼びに行く。そのために、ここを離れようとしていた。けれど――
目の前で人が襲われようとしている。
「……」
また迷いが生まれる。けれど、今度は先ほどとは違った。グラスは自分のラベジニウムへ手を添える。
「……どうする?」
グラスの能力で出せる分身は一体のみ。その分身は違う場所に向かっている。ならば、目の前の人々を守るために出来ることは一つだけ。自分が動くこと。
しかし、グラスの足は動かなかった。
目の前では、エイリ星人が逃げ惑う人々を追い詰めている。悲鳴が響く。誰かが転ぶ。別の誰かが、その人を助けようと手を伸ばす。街は混乱していた。それなのに、グラスだけがその場に取り残されたように動けない。
「……」
拳を握る。
力を入れているはずなのに、足が地面に縫い付けられたようだった。
(動けない……)
自分にはラベジニウムがある。分身を作ることもできる。戦闘能力だって、一般人よりはある。ECOの隊員として選ばれたのも、その適性があったからだ。
(くそ……オレは結局)
グラスは、自分の分身を見る。先ほど悲鳴の聞こえた方向へ向かった、もう一人の自分。いつもそうだった。危険な場所へ行くのは分身。自分は安全な場所に残る。敵の動きを見て、分身に指示を出す。それがグラスにとっての戦い方だった。自分自身が前に出る必要はない。そう思っていた。いや――
そう思うことで、前に出ることから逃げていたのかもしれない。
(ここでも、何も出来ないのか?)
胸の奥が苦しくなる。目の前で、人が追い詰められている。なのに自分は動けない。
ラベジニウムへの適性も、運動能力も、ECOの隊員という身分も──
進む勇気がなければ、何の意味があるのだろう。
その瞬間だった。頭の中に、昔の声が蘇った。
『お前は本当に何も出来ないな!』
「……」
別の声が重なる。
『この役立たず』
「……違う」
グラスの唇が震える。また、あの言葉だ。何度も聞いてきた言葉。失敗するたびに。間違えるたびに。何かを任されるたびに。周りの人間は自分を罵倒する。自分には何もできないのだと、そう思わされてきた。けれど――
「違う……」
今度は、はっきりと言った。グラスは顔を上げる。エイリ星人が人々を追い詰めている。その先には、逃げ場を失った人がいる。その光景を見た瞬間、胸の奥にあった恐怖よりも強いものが生まれた。
「……オレは」
一歩。足が動いた。ほんの僅かな一歩だったが、今まで動かなかった足が、確かに前へ出た。
「オレはこれから、ECOの隊員として戦うんだ」
もう一歩。今度は迷わなかった。
「ドロイさんがいなくても」
さらに一歩。
「分身がなくても」
グラスは拳を握る。自分の前にいるエイリ星人を見据える。怖い。勝てるかどうかも分からない。それでも――
「オレは戦う」
その言葉を口にした瞬間。グラスの身体が一気に前へ飛び出した。地面を蹴る。風を切る。今まで自分の後ろに置いていた身体を、初めて自分自身の意思で前へ押し出す。
エイリ星人が振り向いた。だが、もう遅い。
グラスは真っ直ぐに敵へ向かって走っていた。その顔には、まだ恐怖が残っている。それでも、その足は止まらなかった。初めて――
分身ではなく、自分自身が戦うために。
グラスはエイリ星人との距離を、一気に詰めていった。




