立派な使命
「……グラスさん」
ドロイの声は、いつもと変わらなかった。静かで、落ち着いている。
だからこそ、グラスは顔を上げた。
「何度も間違えるってことは」
ドロイはグラスのノートへ視線を落とした。そこには、何度も消して書き直した跡が残っている。
「何度間違えても挑戦できる強さを持ってるってことですよ」
「……」
グラスは何も言えなかった。
自分にとっては、失敗の証にしか見えなかった。
何度も間違えた跡。何度も消した跡。何度もやり直した跡。
けれど、ドロイはそれを違うものとして見ていた。
「そんなに気に病むことはありません」
そう言って、ドロイは微かに笑った。
「間違えたのなら、直せばいいんです」
「……直せば」
「はい」
ドロイはグラスの隣の席を引いた。
そして、もう一度グラスのノートを開く。
「それに、今日の最後の問題は最初よりもずっと正解に近づいていました」
「……」
グラスは自分のノートを覗き込んだ。
確かにそうだった。最初のページでは、式の途中から間違えている。
その次は計算のミス。さらにその次は符号の間違い。けれど最後の問題では、途中式のほとんどが正しく書かれていた。答えだけを間違えていた。ほんの少しだった。
「……本当ですね」
「でしょう?」
グラスの口元が、ほんの少し緩んだ。
「じゃあ……」
グラスは椅子を引き、ドロイの隣に座った。
「もう一問、やってみてもいいですか?」
「もちろんです」
ドロイは教科書を開いた。
二人の間に、先ほど授業で使った問題集が置かれる。教室にはもうほとんど人がいない。窓の外から聞こえる風の音と、紙をめくる音だけが響いていた。グラスは問題を読み始める。数字を確認する。式を書いていく。今度は、さっきよりも慎重だった。一つ書くたびに、自分で確認する。
「……ここは」
グラスが手を止めた。
「その式で合っています」
「本当ですか?」
「はい」
グラスは少しだけ安心したように息を吐いた。
そして続きを書く。だが――
「……あ」
途中で手が止まる。
「間違えました」
「どこですか?」
「ここです」
グラスが指差す。
ドロイはノートを見る。
「ここは計算ですね。もう一度、落ち着いてやってみましょう」
「……はい」
グラスは消しゴムを手に取った。そして、間違えたところを消す。
また書く。また確認する。時間はかかった。それでも、グラスは途中で投げ出さなかった。一つずつ。間違えたら戻る。分からなければ聞く。そして、もう一度やる。やがて――
「……できました」
グラスが顔を上げた。
ノートに書かれた答えを、ドロイが確認する。
「正解です」
「……!」
グラスの目が僅かに見開かれた。
「本当に?」
「はい」
「……そっか」
グラスはノートを見つめた。たった一問。それだけのことだった。けれど、その一問が妙に嬉しかった。これまでなら、途中で間違えた時点で嫌になっていたかもしれない。けれど今日は違った。ドロイが隣にいてくれた。間違えても、やり直せると言ってくれた。
グラスは静かに眼鏡を直した。
「……もう一問、やってもいいですか?」
「ええ。いくらでも付き合いますよ」
その言葉を聞いて、グラスは小さく笑った。
誰もいなくなった教室で二人は、しばらく問題を解き続けた。
一問終われば次の問題へ。途中でグラスが計算を間違えることもあったが、そのたびにドロイが間違っている箇所を指摘する。グラスも、ただ教えてもらうだけではなく、自分で原因を考えるようになっていた。時間が経つにつれて、机の上には何度も使った消しゴムのかすが増えていく。そして――
「……あ」
グラスが窓の外を見た。
いつの間にか、空が夕焼けに染まっていた。教室に差し込んでいた光も、昼間よりずっと赤くなっている。
「もうこんな時間ですか」
ドロイも窓の外を見る。
「随分と集中していましたね」
「はい……」
グラスはノートを閉じた。
何ページも使ったノートを眺める。間違いだらけだった最初のページと比べれば、最後のほうはかなり綺麗に式を書けるようになっていた。
それが少し嬉しかった。二人はすぐには教室を出なかった。
夕方の静かな空気の中、グラスはふとドロイを見る。
「……ドロイさん」
「はい?」
「ドロイさんは、どうしてECOに?」
突然の質問だった。
ドロイは少しだけ目を細めた。そして、自分の身体へ視線を落とす。
「俺が機械の身体ってことは知ってますよね?」
「はい」
グラスは頷いた。
「宇宙風邪という病気にかかって、重要器官を機械で代替せざるを得なくなったんです」
「……」
グラスは黙って聞いている。
ドロイは淡々と話を続けた。
「その宇宙風邪の原因が、エイリ星人のエネルギー……」
その言葉に、グラスの表情が少し変わった。ドロイにとって、エイリ星人は単なる討伐対象ではない。自分自身の身体を変えた原因でもある。
「俺は宇宙風邪によって他の人が苦しまないように、エイリ星人を少しでも倒そうと思い、ECOに入りました」
「……そうだったんですか」
グラスは静かに答えた。
その言葉を聞いたあと、しばらく何も言わなかった。窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めている。やがてグラスは、少し浮かない顔で呟いた。
「……すごいな」
「?」
「オレは、そんな立派な使命を持ってECOに入ってないんです」
グラスは俯いた。さっきまで問題を解いていたノートの表紙を、指先でなぞる。
「何をやっても不器用なオレですけど……運動はそこそこできたし、ラベジニウムへの適性もあった」
そこで一度言葉を止める。
「だから、ECOを受けました」
その声には、自信よりもどこか申し訳なさがあった。
「学力的に、普通の高校には入れなくて」
グラスは苦笑した。
「昔から勉強の才能が全くなかったので」
さっきまで二人で向き合っていた問題集を見る。何度も間違えて、何度も書き直した。それは、グラスが今まで抱えてきたものの一部でもあった。
「ECOなら……自分にもできることがあるんじゃないかって」
グラスはそう言った。
「だから、オレがここにいる理由って……ドロイさんみたいに立派なものじゃないんです」
夕日の光が、グラスの眼鏡に反射する。その奥にある目は、どこか寂しそうだった。
ドロイは、そんなグラスを静かに見つめていた。




