不器用
後輩達が書いていた大体の問題は合っていた。
だが――グラスの書いた数式だけは、どこかが微妙にずれていた。
「……あれ?」
グラスは自分のノートを見つめ、首を傾げる。数字そのものは間違っていない。計算も、途中までは合っている。それなのに、式を並べていくと、なぜか答えが噛み合わなくなる。隣からノートを覗き込んでいたドロイが、静かに指を差した。
「ここです」
「……ここ?」
「はい。符号が一つ逆になっています」
「…………」
グラスはしばらく黙って、その部分を見つめた。そして、小さく息を吐く。
「すいません……不器用なもので」
「大丈夫ですよ」
ドロイは淡々と答えた。
その横では、エデンが緋山のノートを覗き込んでいた。
「ここはこうじゃない?」
「えっ? あ、本当だ!」
「式を一個ずつ追えば大丈夫だよ」
「エデン先輩、分かりやすい!」
「俺も昔はこういうの苦手だったからね」
「嘘でしょ!」
教室に緋山の声が響く。
グラスはそのやり取りをちらりと見たあと、再び自分のノートへ視線を戻した。
「……よし」
今度こそ間違えない。そう思って、もう一度式を書き直す。しかし――
「…………」
また、どこかがずれた。
「グラスさん」
「はい」
「そこです」
「…………はい」
グラスは静かに消しゴムを取った。
そして、授業終了の鐘が鳴った。
「――今日はここまでだ」
大山がそう告げると、教室に張り詰めていた空気が一気に緩んだ。椅子を引く音。教科書を閉じる音。それぞれがノートや筆記用具を片付け始める。エデンもノートを閉じ、隣の緋山へ声をかけた。
「終わったね」
「はい!今日の授業ちゃんと分かりました!」
「それならよかった」
少し離れた場所では、亜爆がナロクのノートを確認している。
「ここ、計算は合ってますよ」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、途中式はもう少し丁寧に書いたほうがいいですね」
「分かりました!」
そんな中――
グラスは、自分の机に残されたノートをじっと見つめていた。ページには、何度も消して書き直した跡が残っている。数式の途中で間違え。計算を間違え。ドロイに指摘されて直し。また別の場所を間違える。その繰り返しだった。グラスはノートを閉じると、席を立った。そして、隣で教科書を片付けていたドロイのところへ向かう。
「ドロイさん」
「はい?」
「……何度も何度も訂正してもらってすいません」
グラスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「授業中、何回も間違えてしまって……」
「大丈夫ですよ」
ドロイは穏やかに答えた。
「少しずつやっていけばいいんです」
「……少しずつ」
「はい」
ドロイはグラスのノートを見る。そこには確かに、たくさんの訂正の跡があった。けれど――
「最初に比べれば、最後の問題はかなり良くなっていますよ」
「……そうですか?」
「ええ。間違えたところを直して、次の問題で同じ間違いを減らしていました」
グラスはノートを見つめる。自分では、ただ何度も間違えていたようにしか思えなかった。だが、ドロイの言葉を聞いて改めて見てみると、最初のページより最後のページのほうが、確かに間違いは少なくなっている。
「……本当だ」
「ですから、焦らなくて大丈夫です」
ドロイは教科書を閉じた。
「分からないことがあれば、その都度聞いてください。私も分かる範囲で手伝います」
「……ありがとうございます」
グラスは小さく笑った。
「その気持ちがあれば十分ですよ」
ドロイはそう言って、教室を出る準備を始める。
グラスも自分のノートを鞄へしまった。ほんの少しだけ――
今日の授業が、嫌なものではなくなった気がした。
しかし。帰る準備を終えたグラスは、なぜかその場から動かなかった。教室には、少しずつ人が少なくなっている。先ほどまで聞こえていた大山の声も、机に向かう生徒達の筆記音も、今はもうない。窓の外から聞こえる風の音だけが、静かな教室の中に入り込んでいた。グラスは鞄を持ったまま、自分の机の前に立っていた。
さっきまでドロイに教えてもらっていた数式が、頭の中に残っている。間違えて。訂正されて。また間違えて。そのたびにドロイは嫌な顔一つせず、間違った場所を教えてくれた。
『大丈夫ですよ。少しずつやっていけばいいんです』
その言葉を思い返す。優しい言葉だった。だからこそ――
グラスの表情は晴れなかった。
「……」
そんなグラスの様子に、ドロイが気づく。
「どうかしましたか?」
「……え?」
グラスが顔を上げる。
ドロイは急かすことなく、ただ静かにグラスを見ていた。グラスは何かを言おうとして、口を閉じた。そして、少しだけ視線を落とす。言ってしまっていいのか。こんなことを話してもいいのか。そんな迷いが、表情に滲んでいた。しばらく沈黙が続いた。
やがてグラスは、ゆっくりと眼鏡を直す。その仕草は、いつもの彼と変わらない。けれど、その声は少しだけ違っていた。
「実は、オレ……不器用すぎて、昔から友達が少なかったんです」
ドロイは何も言わずに聞いている。
グラスは続けた。
「何かをやろうとしても、大体ケアレスミスを連発して失敗するんです」
言葉にするたびに、グラスの目が少しずつ伏せられていく。
今日だけの話ではない。今日、授業で何度も間違えたから落ち込んでいるわけでもない。ずっと昔から、自分の中にあったものだった。何かを始めようとする。頑張ろうとする。けれど、肝心なところで間違える。周りが一度でできることを、自分だけ何度もやり直す。そして、そのたびに誰かの手を煩わせる。それが積み重なっていく。
「ちゃんとやろうとは思ってるんです」
グラスは自分の手を見つめた。
「でも、どうしてもどこかで間違えるんです」
その声には、悔しさが混じっていた。
「だから……周りからは、何をやっても失敗する奴って思われてたんだと思います」
グラスは苦笑した。笑っているようで、どこか寂しい笑いだった。
「別に、誰かに嫌われたかったわけじゃないんです」
「……」
「オレだって、友達が欲しかった」
その言葉だけは、妙にまっすぐだった。静かな教室に落ちていく。グラスはそこで一度、言葉を止めた。自分からこんな話をするのは、初めてだった。
「……だから今日も」
グラスはノートを取り出した。何度も消して書き直した跡が残っている。
「また同じことをしてるなって思って」
グラスはページを見つめた。
「せっかくドロイさんに教えてもらったのに、何度も間違えて……」
自分でも嫌になる。そんな気持ちが、声の端に滲んでいた。
「昔と何も変わってないんじゃないかって」
その言葉を最後に、グラスは黙った。静かな教室。窓から差し込む光が、机の上に細長く伸びている。ドロイはすぐには答えなかった。グラスの言葉を遮らず、ただその場に立っていた。やがて――
「……グラスさん」
穏やかな声が、静かな教室に響いた。




