日常の一つ
翌朝。
ECOアモリス支部の教室には、朝の静かな空気が流れていた。窓から差し込む光が机の上へ伸び、まだ少し眠たそうな空気を照らしている。
教室の前方では、大山が黒板に向かっていた。手にしたチョークを動かしながら、教科書に載っている数式を一つずつ書き写していく。
「ここはこうなって……」
黒板に数字と記号が並んでいく。今日の授業は、ECO隊員として活動するうえで必要になる基礎科目だった。戦闘訓練だけではない。能力の性質を理解するためにも、状況を判断するためにも、最低限の知識は必要になる。
そして今、大山が教えているのは、主に新人たちのための授業だった。エデン、ドロイ、亜爆にとっては、一度受けたことのある内容である。そのため、三人は授業を聞きながらも、時折後輩たちの様子を見ていた。
「…………」
エデンは自分の教科書を開いたまま、隣の席を覗き込む。
緋山は黒板と教科書を交互に見ながら、必死に式を書き写していた。
「えっと……ここが……」
「そこ、先にこっち計算すると分かりやすいよ」
「え?」
エデンが教科書を指差す。
「ここを計算してから、最後にこの数字を入れるんだって」
「なるほど!」
緋山はすぐにノートへ視線を戻した。
「分かりました!」
勢いよくペンを走らせる。
その様子を見て、エデンは小さく笑った。
少し離れた席では、ドロイがグラスのノートを覗いていた。
グラスは眼鏡を押し上げながら、難しそうな顔で数式を眺めている。
「ここまでは理解できます」
グラスが呟く。
「ですが、この部分の変形が……」
「この式を一度、別の形にすると分かりやすいですよ」
ドロイが落ち着いた声で説明する。
「こうしてから、こちらを代入します」
「……ああ」
グラスの表情が少し明るくなる。
「なるほど」
亜爆の周囲では、ナロクが真剣な顔でノートと睨み合っていた。
「……」
亜爆は横からナロクのノートを見る。
式の途中で、ペンが完全に止まっている。
「分からないところがありますか?」
「……はい」
ナロクは素直に答えた。
亜爆がノートを覗き込む。
「ここですね」
「どうしてここで、この数字になるんですか?」
「前の式を整理するとこうなります」
亜爆が指で順番を示す。
ナロクは何度か頷きながら、同じように計算していく。
「……あ、本当だ」
「焦らず順番にやれば大丈夫ですよ」
「ありがとうございます!」
教室の中には、そんな小さなやり取りがいくつも生まれていた。前に授業を受けた先輩たちが、今度は後輩たちへ教えている。それは戦闘とはまったく違う時間だった。黒板に書かれる数式。ページをめくる音。ペンがノートを走る音。そんな音に囲まれながら、エデンはふと教室全体を見回した。
少し前まで、自分たちが座っていた場所。今はそこに、新しい仲間たちがいる。
「……なんか、不思議だね」
エデンがぽつりと言う。
「何がですか?」
緋山が顔を上げる。
「俺たちも、最初はこうやって教えてもらってたんだよね」
そう言われて、緋山は少し考える。
「じゃあ、今度は私たちが教えてもらう番ってことですか?」
「うん。それで、いつかは緋山たちが誰かに教える側になるんじゃないかな」
「……!」
緋山は少しだけ嬉しそうに笑った。
「なんか、それいいですね!」
その声に、教室の前方から大山が振り返る。
「おーい、私語はそこまでにしておけよ」
「あ、すみません!」
緋山が慌てて黒板を見る。
エデンも苦笑しながら教科書へ視線を戻した。
再び、チョークの音が教室に響く。昨日まで知らなかったことを学ぶ後輩たち。それを支える先輩たち。そして、その様子を見守る大山。静かな朝の授業。戦いのない時間は、こうして少しずつ積み重なっていく。
エデンは黒板を見つめながら、ふと思った。こういう時間も――。
ECOで過ごす日々の、大切な一部なのかもしれない。
一方、その教室の中で少しだけ立場が特殊な二人がいた。
シオンとフルトである。二人は一応、先輩と後輩という関係になっている。しかし――
「…………」
シオンは教科書を開いたまま、黒板を見つめていた。
「…………」
その隣では、フルトもまた同じように黒板を見つめている。
二人とも、完全に黙っていた。
理由は簡単だった。今、大山が教えているこの授業。実はシオンもフルトも、受けたことがない。つまり――
「……シオンさん」
フルトが小声で呼びかける。
「なに?」
「これ……分かりますか?」
「…………」
シオンは黒板を見る。
数式が並んでいる。教科書を見る。同じような数式が載っている。もう一度、黒板を見る。そして――
「……分からない」
小さな声で答えた。フルトは少しだけ安心したような、それでいて困ったような顔になる。
「よかった……」
「なんで?」
「いえ……シオンさんなら分かるのかなって」
「ぼくも初めてだから」
シオンはそう言って、もう一度教科書へ目を落とした。
先輩としてフルトを教える。そう決めたばかりだった。
エリア・ストラスでの出来事を思い返せば、シオンにはまだ「先輩」としての自分に自信がない。だからこそ、せめてこういうところではちゃんとしなければと思っていた。しかし――
まさか授業そのものを知らないとは思っていなかった。
「……どうしよう」
シオンが呟く。
その声を聞いて、フルトも困ったように教科書を眺める。
「二人とも、そこはこうですよ」
突然、横から声がした。二人が振り向く。そこにはドロイがいた。
「この式を先に整理すると、次の式になります」
ドロイが教科書を指差す。
シオンは説明を聞きながら、何度か頷く。
「……あ」
「分かりましたか?」
「うん。たぶん」
「たぶん……?」
フルトが小さく呟く。
「大丈夫。たぶん分かった」
シオンが真剣な顔で言う。
フルトは少しだけ笑った。
「じゃあ、二人でやってみましょうか」
「うん」
二人は揃ってノートへ向き直る。先輩と後輩。
けれど、この瞬間だけはそんな関係すら少し曖昧だった。教える側と教えられる側。そのどちらにもなりきれない。それでも、二人で同じ問題に向き合う。そんな光景もまた、ECOアモリス支部の日常の一つになりつつあった。




