力をどう使うか
ナロクがアモリス支部へ戻ってきた頃には、すっかり日も傾き始めていた。支部内は、いつもの時間帯なら職員たちの行き交う音や、訓練を終えた隊員たちの話し声で騒がしいはずだった。
しかし、この日は妙に静かだった。廊下を歩くナロクの足音だけが、一定の間隔で響いている。警察署で聞いた話を、ナロクは何度も頭の中で整理していた。
刈谷恭弥。一週間前にスーツ姿の男と出会い、契約を交わした。その男から黒いラベジニウムを与えられ、背中へ埋め込まれた。そして、そのラベジニウムによって得た能力――トランスポート。円を出現させ、合図をすることで空間を移動する力。さらに、契約には条件があった。力を振るうことに躊躇しないこと。復讐を果たすためなら、何でもすること。
そして、刈谷が自首すると決めた直後。ラベジニウムは突然、崩れた。誰かが契約を破棄した。それが、ナロクの中で一番大きな疑問として残っていた。
教室の扉を開ける。
「戻りました」
「おかえりなさい」
中にいたのは亜爆だった。
机に向かって何かをしていた亜爆は、ナロクへ視線を向ける。
「どうでした?」
その問いに、ナロクは一度息を整えた。
「犯人の人は、やっぱり誰かからラベジニウムを与えられていたそうです」
亜爆の表情が少し変わる。
「……やっぱり、ですか」
「はい」
ナロクは教室の中へ入り、亜爆の向かい側に座った。
そして、警察署で聞いたことを一つずつ話し始めた。一週間ほど前。刈谷が日雇いの仕事から帰る途中、普段は通らない路地裏へ入ったこと。そこでスーツ姿の、セールスマンのような男に声をかけられたこと。『力が欲しくないですか?』その男がそう言ったこと。そして――
『簡単に力を得る方法があります』
『欲望、願望、野望、復讐そのどれも』
『実現には力がいります。そのための力を私はあなたに提供できる』
その言葉を聞いた刈谷が、提案を受け入れたこと。契約の条件。ラベジニウム。トランスポート。能力の発動方法。そして、自首を決めた直後にラベジニウムが崩れたこと。ナロクは知っていることを、すべて亜爆へ伝えた。
亜爆は途中で口を挟むことなく、静かに聞いていた。時折、眉を寄せる。特に「契約」という言葉が出るたびに、その表情は険しくなった。すべてを聞き終えると、亜爆はしばらく黙っていた。頭の中で情報を整理しているようだった。やがて、ゆっくりと口を開く。
「分かりました」
亜爆は椅子から立ち上がった。
「ナロク君は寮に戻って休んでください」
「でも……」
「今日は十分動いています」
亜爆は穏やかな声で続ける。
「この情報は私が他の皆に伝えておきます」
ナロクは少し迷った。
まだ事件について考えたいことはある。しかし、確かに身体には疲れが残っていた。それに、これ以上一人で考えても答えが出るとは限らない。
「……分かりました」
ナロクは立ち上がり礼儀正しくお辞儀した。
「お願いします!」
「ええ」
ナロクは教室を出ていった。
扉が閉じる。その瞬間、教室には亜爆一人だけが残された。静寂。さっきまでナロクが話していたことで満たされていた空間が、急に広く感じられた。
亜爆は椅子へ腰を下ろす。そして、何気なくポケットへ手を入れた。指先に触れたのは、いつもの感触。タバコの箱だった。取り出して眺める。一本取り出す。口元へ運ぶ。そして――
火をつけようとしたところで、亜爆の手が止まった。
「…………」
周囲を見回す。教室。机。椅子。壁。その光景を見て、ようやく思い出した。
「そうだった、ここじゃあ吸っちゃダメでしたね」
小さく苦笑する。火をつけることなく、タバコを箱へ戻した。その何気ない動作をきっかけに、亜爆の記憶が過去へ引っ張られていく。
四ヶ月前。自分が初めてECOアモリス支部へ来た時。まだ、この場所の勝手もよく分かっていなかった。そして――
何気なくタバコを取り出した自分に、すぐさま声を飛ばしてきた男がいた。
「ここで吸うんじゃねぇよ!」
ジエル。あの時の声が、妙にはっきりと蘇る。亜爆は思わず、誰もいない教室を見回した。もちろん、そこにジエルはいない。椅子も、机も、何も変わっていない。変わったのは――
そこにいる人間だけだった。
「…………」
亜爆はタバコの箱をポケットへしまった。
ジエルがいなくなってから、もう四ヶ月が経っている。時間だけは、何事もなかったかのように進んでいく。新人たちも入ってきた。新しい日常も始まった。ナロクや緋山たちが、この支部で笑ったり、訓練したりしている。それでも。ふとした瞬間に思い知らされる。一人いないだけで、こんなにも静かになるのだと。
亜爆は空になった教室を眺める。
「……あれから4ヶ月も経ちましたけど」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「こうも静かなのは……慣れませんね」
返事はない。当然だった。それでも亜爆は、しばらくそこから動かなかった。窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと街を染めている。いつもと変わらないアモリスの景色。けれど、その景色を眺めながら、亜爆はふと思う。
――ジエルがいた頃は、もっと騒がしかった。
怒鳴り声が聞こえて。誰かが笑っていて。くだらないことで言い合って。そんな日々が、当たり前のように続いていた。
その「当たり前」が失われてから、四ヶ月。亜爆は目を閉じる。そして、ポケットの中のタバコへ触れた。火をつけることはなかった。ただ、そのまま静かな教室に座り続けていた。
寮の自室へ戻ったナロクは、部屋の扉を閉めた。
「…………」
静かな部屋だった。任務から戻ってきたばかりだというのに、身体を休める気にはなれなかった。荷物を置き、制服を着替える。ベッドに腰を下ろしても、すぐには横にならない。頭の中に浮かんでいるのは、あの男のことだった。刈谷恭弥。そして――
刈谷に黒いラベジニウムを渡した、スーツ姿の男。
「…………誰なんだ」
小さく呟く。
ナロクはベッドから立ち上がると、机の前に座った。紙を一枚取り出して、聞いた話を整理してみる。
黒いラベジニウム。契約。トランスポート。復讐。しかし、どれだけ考えても、男の正体に繋がる情報はなかった。
名前も分からない。所属も分からない。目的も分からない。なぜ刈谷に力を与えたのかさえ、分からない。
「……何も分からない」
ペンを置く。紙の上には、いくつかの単語が並んでいるだけだった。それ以上、書けることはなかった。ナロクは椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げる。事件そのものは終わった。刈谷は自首した。被害者たちも救われた。けれど、その裏にいた人物は今もどこかにいる。そして、もしかすると刈谷だけではないのかもしれない。同じように誰かへ力を与えているとしたら。そう考えると、ナロクの胸に嫌な感覚が残った。だが――
今回の事件で、ナロクが考えさせられたのは、それだけではなかった。
ナロクは左手を見る。そこにあるラベジニウム。自分が得た力。
それまでナロクにとって、力とは比較的単純なものだった。力があれば、人を助けられる。力があれば、誰かを守れる。もちろん、それが間違っているとは思わない。誰かを救うために、力が必要になることは確かにある。けれど――
刈谷を見て、その考えだけでは足りないことを知った。力は、人を助けるためだけに存在するわけではない。使う人間によって、その意味は変わってしまう。
誰かが過去に犯した罪によって、人が傷つく。傷つけられた人間の中に、消えない怒りが残る。そして、その人間が力を手に入れた時。その力が、復讐のために使われ、罪を犯してしまうこともある。
ナロクは目を閉じる。もし刈谷が力を得なかったら。もし、あのスーツの男が現れなかったら。それでも、刈谷の中にあった苦しみが消えていたとは限らない。力がすべての原因だったわけではない。けれど、力を得たことで、その怒りを現実の行動に変えられるようになってしまった。
「…………」
ナロクは自分の手を握る。力は恐ろしいものだ。そう思った。けれど――
同時に、必要なものでもある。誰かを救いたい。誰かを守りたい。そう思った時、自分に何の力もなければ、救えないことだってある。だから、力そのものを否定することもできない。実際に、刈谷を救えたのも、ラベジニウムの能力が覚醒したからだ。大切なのは――
力を持つことではなく。その力を、どう使うか。ナロクは、今日聞いた刈谷の言葉を思い出す。
『じゃあ、お前は間違えるなよ』
『力を持ってもそのせいで罪を犯しちゃ元も子もないからな』
あの言葉は、ただの忠告ではなかった。自分自身の失敗を知っている人間だからこそ、言えた言葉だった。
ナロクはゆっくりと立ち上がる。時計を見る。もう、眠る時間になっていた。部屋の明かりを消す。暗闇の中、ナロクはベッドへ入った。布団をかぶり、目を閉じる。
明日になれば、また訓練がある。
ECOの一員として、誰かを守るために力を使う日々が続いていく。その力を、決して間違った方向へ向けないために。ナロクは今日の出来事を、心の中に深く刻み込んだ。
力は、人を救うこともできる。
人を傷つけることもできる。だからこそ――
「……どう使うか、か」
小さく呟く。
やがて、その声も静かな部屋の中へ消えていった。
ナロクは目を閉じたまま、ゆっくりと眠りについた




