トランスポート
男はしばらく黙っていた。自分が受け取った力について話すことには、まだどこか抵抗があるようだった。それでも、ナロクが真剣に話を聞いているのを見て、少しずつ記憶を整理するように口を開く。
「契約して、俺は背中にラベジニウムを入れてもらった。で、その力についても説明された」
ナロクは頷きながら聞いている。
男は椅子の背もたれに身体を預け、目を伏せた。背中にラベジニウムを埋め込まれた時のことを思い出す。それは、ほんの一週間前の出来事だった。あの時は、それが自分の身体に危険なものを埋め込む行為だという認識すら薄かった。力が手に入る。その事実だけに意識を奪われていた。
「その力の名前はトランスポート」
その名前を聞いたナロクが、少しだけ反応する。
「トランスポート……」
「力を使うと円が出て、合図を出せば自分が記憶してる場所まで円を出してワープ出来るっていう力だ」
男は、自分の足元を指差すように視線を落とした。
「地面に円が出るんだ。そこから俺が出たり、別の場所に移動したりできる。他人を飛ばすことだって出来るらしい」
ナロクは二日前の戦いを思い返した。突然、目の前に現れた円。そこから現れた犯人。そして、犯人の足元に現れた円。一瞬で姿を消す。あの不可解な能力の正体が、ようやく明らかになっていく。
「飛ばせとか合図は何でもいいらしい」
「何でも……?」
ナロクが聞き返す。
男は頷いた。
「そうだ。決まった言葉じゃない。合図になればいいらしい」
それを聞きながら、ナロクは考える。あの戦いで、男は何度も「飛ばせ」と言っていた。その言葉が能力発動の合図だった。しかし、重要なのは言葉そのものではない。円を出現させ、そこへ何らかの合図を送る。それによって空間を移動する。ナロクの頭の中で、事件の状況が少しずつ整理されていく。
「最初に説明された時は、すごい力だと思ったよ」
その声には、当時の興奮がほんの少しだけ残っていた。どこへでも移動できる。追われても逃げられる。自分が傷つけたい相手の前に現れることもできる。そして、危なくなれば消えることもできる。復讐をするには、あまりにも都合のいい力だった。
「……だから俺は、何も疑わなかった」
男は小さく呟く。
「力をくれる。復讐にも使える。条件だって、当時の俺には簡単に思えた」
だが、その力はもうない。背中にあったラベジニウムは消えた。そして男自身も、今では自分がその力をどう使っていたのかを振り返ることしかできない。
「だから俺は契約が破棄になった時、どうなるかすら俺は聞かなかった。何でラベジニウムが消えたのか、気絶したのか、俺は知らない」
ナロクは黙って聞き続けていた。
目の前に座る男を見つめながら、こまで聞いた話を頭の中で整理していた。
一週間前。
路地裏で出会った、スーツ姿の男。
「力が欲しくないですか?」
その言葉から始まった契約。背中に埋め込まれたラベジニウム。そして、トランスポートという能力。男は復讐のためにその力を使い、六人を傷つけた。しかし、その力を与えた人間については、まだ何も分かっていない。誰なのか。何者なのか。なぜ、この男に力を与えたのか。ナロクの中には、まだ多くの疑問が残っていた。
だが、それ以上に聞き続けることはできなかった。面会室の時計へ目を向ける。面会時間も、もう終わりに近づいている。男もそれを察していたのか、少し疲れたように息を吐いた。
「もういいだろ、言えることは全部言ったぞ」
その声には、もう事件を起こした頃のような荒々しさはなかった。自分の罪を受け入れようとしている人間の声だった。
ナロクは小さく頷く。そして、椅子から立ち上がろうとした。だが――
立ち上がる直前。ふと、あることが気になった。男は事件の容疑者。復讐を実行した人間。けれど。目の前にいるのは、それだけの存在ではない。過去に傷つき、怒り、間違えてしまった一人の人間だ。ナロクは、もう一度椅子に座り直した。男が不思議そうに見る。
「最後に、聞きたいことがあります」
「……なんだ?」
ナロクはまっすぐ男を見る。
「あなたの名前は?」
男は一瞬、目を丸くした。そんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。やがて――
「ふっ」
小さく笑った。事件の最中には一度も見せなかった、どこか穏やかな笑みだった。そして、ゆっくりと口を開く。
「刈谷恭弥だ」
その名前を、ナロクは心の中で繰り返した。刈谷恭弥。自分が出会った事件の犯人。そして、自分がECOに入って初めて真正面から向き合った人間。
ナロクは立ち上がる。
「覚えておきます。一生」
その言葉を聞いた刈谷は、何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めた。やがてナロクは面会室を出るため、扉へ向かって歩き始める。その背中を見ながら、刈谷はふと思った。自分がこの少年と出会ったのは、ほんの二日前だ。それなのに。なぜか、もう二度と忘れないような気がした。そしてナロクが扉へ手を伸ばした、その時だった。
「ちょっと待て」
ナロクが振り返る。
刈谷は椅子に座ったまま、ナロクを見ていた。
「お前、ラベジニウムを使ってたってことはECOだよな?」
ナロクは頷く。
「はい」
短い返事。
刈谷は少しだけ視線を落とした。そして、もう一度ナロクを見る。
「じゃあ、お前は間違えるなよ」
その言葉には、以前の刈谷からは想像できないほどの重みがあった。
ナロクは黙って聞いている。
「力を持ってもそのせいで罪を犯しちゃ元も子もないからな」
刈谷は、自分自身へ言い聞かせるように続けた。力があれば、何でもできると思っていた。力があれば、過去を変えられると思っていた。力があれば、自分を苦しめた人間に報いを受けさせられると思っていた。けれど、力を手に入れた結果、自分は新たな罪を重ねた。そのことを、今なら理解できる。だからこそ。これから力を使う少年には、自分と同じ道を歩んでほしくなかった。
ナロクはしばらく刈谷を見つめた。そして、静かに頭を下げる。
「肝に銘じます」
刈谷は何も言わなかった。
ナロクも、それ以上は言わない。扉が開く。ナロクは面会室を後にした。閉じていく扉の向こうで、刈谷は一人になった。
静かな面会室。冷たい壁。そして、もう存在しない背中のラベジニウム。刈谷はゆっくりと背もたれに身体を預けた。自分の人生は、これから罪と向き合う時間になる。それは決して楽なものではない。だが――
最後に、自分の言葉を受け取ってくれた人間がいた。そのことだけが、ほんの少しだけ心に残っていた。
一方、廊下を歩くナロクは、何も言わず前を向いていた。刈谷恭弥。その名前を、胸の中で繰り返す。そして同時に、最後に言われた言葉も忘れない。
――力を持っても、そのせいで罪を犯しちゃ元も子もない。
ナロクは自分の左手を見る。そこにあるラベジニウム。これから自分も、この力と向き合っていかなければならない。力は、人を救うこともできる。けれど。使い方を間違えれば、人を傷つけることもできる。
ナロクはそのことを胸に刻みながら、警察署の出口へ向かって歩いていった。




