面会
二日間。
男は、ほとんど誰とも言葉を交わさずに過ごしていた。当然だった。自分のもとへ面会に来る人間など、いるはずがない。家族にも、友人にも、胸を張って会えるような状態ではない。ましてや、事件を起こした自分をわざわざ訪ねてくる人間など、想像すらしていなかった。だから――
「面会です」
留置場の外から警察官にそう告げられたとき、男は一瞬、意味を理解できなかった。
「……面会?」
思わず聞き返す。
警察官は淡々と頷いた。
「はい」
男はしばらく黙り込んだ。一体、誰が。何のために。自分に会いに来るというのか。まさか被害者の家族ではないか。そんな考えが頭をよぎり、男の表情がわずかに強張る。しかし、面会室に入った瞬間、その予想は完全に外れた。
「…………」
目の前にいたのはナロクだった。男の目が大きく開かれた。あの少年。二日前、自分の腕を掴んで離さなかった少年。自分の復讐を止めようと、何度も言葉を投げかけてきた少年。
まさか。男は思わず眉をひそめた。なぜ、あいつが。少しの間しか顔を合わせていない。それなのに、わざわざ面会にまで来る。男には、その行動がどうしても理解できなかった。
男は立ったまま、しばらくナロクを見つめる。そして、深いため息を吐いた。
「........一体何しにここへ?」
呆れたような声だった。たった一度、会っただけの人間。それなのにナロクは、自分を全力で止めようとしてきた。自分が何を言っても、何度逃げようとしても、決して手を離さなかった。そして今度は、わざわざ面会にまで来ている。男からすれば、理解不能だった。
ナロクはそんな男の反応を気にする様子もなく、静かに口を開いた。
「聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと?」
男が眉をひそめる。
ナロクは少しだけ姿勢を正した。そして、男をまっすぐ見つめる。
「あなたが使っていたラベジニウムについて」
「…………」
男の表情が変わった。その言葉を聞いた瞬間。二日前、自分の背中に埋め込まれていた黒いラベジニウムの感触が蘇る。力を与えてくれたもの。そして最後には、何の前触れもなく崩れ去ったもの。男は無意識に、自分の背中へ手を伸ばしかけた。
もうそこには何もない。それでも、その存在だけは消えていなかった。ナロクは、その変化を見逃さなかった。
「……何か知っているんですよね」
静かな問いだった。
男は答えない。面会室の中に、短い沈黙が流れる。やがて男は、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。そしてナロクを見つめながら、重い口を開いた。
「……あれについては、俺も全部知ってるわけじゃない」
その声には、二日前までの怒りとは違うものがあった。恐怖。困惑。そして、自分自身でもまだ整理しきれていない記憶。
ナロクは黙って続きを待っていた。
男はしばらく俯いたままだったが、やがて自分の記憶を辿るように、ゆっくりと口を開いた。
「一週間前ぐらいに、日雇いのアルバイトから帰ってた時だ」
その声は、どこか遠いところから聞こえてくるようだった。男自身も、あの日のことを思い出そうとしている。一週間前。ただの日常を生きていた頃。仕事を終えた時には、すでに夜遅くなっていた。疲れた身体を引きずるようにして、いつもの帰り道を歩いていた。
「夜遅くなってたから早く帰ろうと思って、いつもは通らない路地裏を通ってた」
男の視線が、面会室の机へ落ちる。
街灯の少ない細い路地。人通りもほとんどない。一刻も早く家へ帰りたい。そんな気持ちだけで、普段なら避けるような道へ入った。その選択が、自分の人生を大きく変えることになるなど、その時の男は知る由もなかった。
「そうしていたら……」
男が言葉を止める。ほんの少しの沈黙。そして、あの日見た人物を思い出す。
「目の前にスーツを着た、見るからにセールスマンみたいな男がいたんだ」
ナロクの眉がわずかに動いた。スーツ。セールスマン。路地裏に立つ、場違いな男。
「最初はすいませんって言って通り抜けようとした」
男は、その時の自分を思い出す。怪しいとは思った。だが、深く考えるほどのことでもないと思った。ただ道を塞いでいる人間。そう思って、その横を通り過ぎようとした。その時だった。
「でも、その男は急に『力が欲しくないですか?』って言ってきたんだ」
ナロクの目が細くなる。その言葉には、妙な引っ掛かりがあった。力が欲しくないか。それは、ただの勧誘とは明らかに違う。男は続ける。
「『簡単に力を得る方法があります』」
まるで商品を売り込むセールスマンのような口調だったという。だが、その男が提示したものは、商品などという生易しいものではなかった。
「『欲望、願望、野望、復讐そのどれもが叶います』」
男はそこで一度、息を吐いた。
「あいつは……そう言ったんだ」
その言葉の意味を、ナロクは黙って考える。欲望。願望。野望。そして――復讐。まるで、人間が抱える様々な感情を最初から知っているような言い方だった。
「『実現には力がいります。そのための力を私はあなたに提供できる』」
男の声が、面会室に静かに響く。
それを聞いた時。男の中にあったものが、刺激された。ずっと消えなかった怒り。忘れようとしても忘れられなかった過去。自分を傷つけた人間たちへの憎しみ。それらを消すのではなく、叶えるための力をくれる。そんな話だった。
「そんなことを言っていた気がする」
男は苦笑する。今となっては、自分でも信じられない。そんな怪しい話を、なぜ信じたのか。だが、当時の自分には――
信じたかったのだ。力さえあれば。力さえ手に入れば。過去に受けた苦しみを終わらせられる。そう思ってしまった。
「俺はその提案に乗って、契約した」
ナロクは黙って聞いている。
「契約の条件は……力を振るうことに躊躇しないこと、復讐を果たすために何でもすること」
その条件を口にした瞬間、男の顔がわずかに歪んだ。
「……あの時は簡単な条件だと思ってたんだ」
力を振るうことに躊躇しない。復讐のために何でもする。あの時の自分には、それが簡単に思えた。むしろ――
望んでいた条件だった。自分には怒りがある。復讐したいという気持ちもある。ならば、その力を使えばいい。そう考えていた。けれど。男は今になって、その言葉の重さを理解していた。
「何でもする、なんて……簡単に言うもんじゃなかった」
ぽつりと呟く。面会室の空気が重くなる。ナロクは男を責めなかった。ただ、じっと話を聞いている。男は拳を握った。
「あの時の俺は……力さえあれば、全部うまくいくと思ってたんだ」
復讐を果たせば楽になれる。そう信じていた。しかし、実際に力を手にしても、心が軽くなることはなかった。六人を傷つけた。そして、自分自身もまた傷ついた。最後には、契約していた何者かによって、その力さえ奪われた。
「……今思えば」
男はゆっくり顔を上げる。
「俺は、あいつに力をもらったんじゃない」
ナロクが見る。
男は苦しそうに言葉を続けた。
「自分の中にあった怒りを……利用されたんだと思う」
その言葉に、ナロクは何も答えなかった。
ただ、男の証言を一つ一つ頭の中へ刻み込んでいく。




