特別なラベジニウム
現場に残された緊張感の中で、エデンの言葉だけが二人には理解できなかった。
ナロクと緋山は、互いに顔を見合わせる。
「ラベジニウムから……」
「声が聞こえた?」
二人とも、同じような困惑を浮かべていた。ラベジニウムが能力を引き出すためのものだということは知っている。しかし、それが喋る。しかも、持ち主に直接声を届ける。そんな話は聞いたことがない。
二人の様子を見た亜爆が、事情を知らない二人のために口を開いた。
「エデンさんのラベジニウムは特別で話せるんですよ」
亜爆はエデンの左手へ視線を向ける。
「まぁその声はエデンさんにしか聞こえないんですけど」
「へー、そんなラベジニウムが」
緋山は興味深そうにエデンの左手を覗き込んだ。
ナロクも驚きながら、その黒いラベジニウムを見る。普通のラベジニウムとは違い、黒いだけでなく、その中に意思を持った存在がいるとは知らなかった。
一方、エデンは二人の反応を気にすることなく、左手へ意識を向けていた。
「ケイ」
心の中で呼びかける。すぐに返事があるわけではない。だが、エデンには分かっている。ケイはここにいる。いつでも、自分の中にその声を届けられる。エデンは静かに問いかけた。
「契約について何か知ってることない?」
問いかけた瞬間。頭の中に、聞き慣れた低い声が響いた。
『私が知っていることは契約をすれば力を与えられるという知識だけだ』
エデンは黙って耳を傾ける。
『他は何も知らない』
「…………」
予想していた答えとは、少し違った。エデンは無意識に左手へ視線を落とす。ケイ自身も、契約について詳しく知っているわけではない。ただ――
契約すれば、力を与えられる。その知識だけを持っている。それは、エデンがケイと出会ったときに聞いた言葉とも一致していた。
――力が欲しいなら。
――契約すると言え。
あのときの言葉が、再び脳裏に蘇る。エデンは眉を寄せた。
「じゃあ……ケイ自身も、誰かと契約するっていう仕組みがどういうものなのかは知らないってこと?」
『そうだ』
短い返答。そこには迷いもなかった。知らないものを知らないと告げる。それだけだった。エデンは考え込む。今回の犯人。背中に埋め込まれていた黒いラベジニウム。そして「契約」という言葉。さらに、犯人が自首すると決めた直後に起きた異変。もし本当に誰かがラベジニウムを与え、契約を結ばせていたのだとしたら。その人物は、犯人が復讐をやめようとしたことを知っていた。だから契約を破棄した。そして――ラベジニウムを壊した。
「……分からないことばっかりだな」
エデンが呟く。
「でも」
ナロクが口を開く。
エデンが振り向く。
ナロクは先ほどまでの困惑を残しながらも、事件について考え始めていた。
「今回の事件には、まだ誰かが関わっている」
その言葉に、エデンも頷く。
「うん」
静かな返事だった。遠くでは、警察車両のエンジン音が響いている。事件そのものは終わった。犯人も捕まった。被害者たちも、これから少しずつ日常を取り戻していくのだろう。それでも――
この事件の裏側には、まだ姿を見せていない何者かがいる。その存在だけが、確かに残されていた。そしてエデンの左手にある黒いラベジニウム――ケイもまた、その謎に繋がる可能性を秘めている。
だが今は、ケイでさえ知らない。契約とは何なのか。誰が契約を与えているのか。そして、なぜその力を他人に与えるのか。エデンたちはまだ、その入口に立ったばかりだった。
二日後。アモリス警察署、その奥にある留置場。外の喧騒から切り離されたような静かな空間に、男は一人で座っていた。背中を壁に預け、膝を立てる。冷たい床の感触が、服越しに伝わってくる。
少し前までなら、こんな場所に自分がいるなんて想像もしなかった。自分は被害者だった。ずっと、そう思っていた。中学生の頃に受けたこと。誰にも相談できなかったこと。何年経っても消えなかった怒り。そして、ラベジニウムによって力を得たことで、その怒りを晴らせると思った。実際に、自分は六人を襲った。相手を見つけては、傷つけた。そのたびに、少しだけ胸の奥が軽くなるような気がしていた。だが――それは、本当の意味で楽になったわけではなかった。
今になって、静かな場所で一人になってみると分かる。残っているのは、重たい後悔だけだった。男は自分の手を見つめる。何度も握っては、開く。もうラベジニウムの力はない。
二日前、突然崩れ始めた黒いラベジニウムは、そのまま消えてしまった。自分に力を与えていたもの。復讐を可能にしていたもの。そして、自分の怒りを現実のものにしてしまったもの。今は何の痕跡も残っていない。男は背中へ手を回す。そこにあったはずのものを確かめるように触れる。何もない。
「…………」
そのことが、かえって現実を突きつけてくる。力は消えた。もう復讐はできない。いや――
そもそも、する必要なんてなかった。
男は目を閉じる。脳裏に浮かんだのは、ナロクの姿だった。何度逃げようとしても、決して手を離さなかった。自分を責めることも、怒鳴りつけることもせず、ただ真正面から言葉を投げかけてきた。
――あなたはまだ戻れるんです。
あの言葉が、今も耳に残っている。自分は戻れる。そんなことを考えたことはなかった。六人を傷つけた。それでも、自分は殺さなかった。あのときナロクに言われるまで、そのことに意味があるなんて考えもしなかった。ただ、怒りに任せていた。自分も苦しんだ。だから相手にも同じ苦しみを味わわせたかった。その気持ちだけで動いていた。けれど――
それを理由にして、自分が誰かを傷つけていいわけではない。男は俯く。胸の奥に、重いものが沈んでいく。被害者だった自分と、加害者になった自分。どちらも、間違いなく自分自身だった。
「……俺は……」
小さな声が、誰もいない留置場に落ちる。その先の言葉は続かなかった。何を言っても、過去は消えない。傷つけた人たちの傷も、自分が抱えていた苦しみも、なかったことにはならない。それでも――
自分は、自分がしたことと向き合わなければならない。
男はゆっくりと顔を上げる。鉄格子の向こうから差し込む光を見つめる。その光は小さく、決して眩しいものではなかった。だが、真っ暗だった自分の中に、ほんの少しだけ何かを感じさせる。もう、力はない。もう、復讐もできない。だからこそ。これからは、自分のしたことから逃げることはできない。男は再び俯き、静かに目を閉じた。
二日前までとは違う時間が、ゆっくりと始まろうとしていた。




