ラベジニウムと契約
しばらくして、通りの向こうから複数の足音が近づいてきた。
騒ぎを聞きつけ、遅れて現場へ到着したのはエデンたちだった。先頭を歩いていたエデンは、救急車の赤色灯と、周囲に集まる警察官たちを見た瞬間、足を速める。
「ナロク!」
「エデンさん!」
ナロクが振り返る。その表情には、事件が解決した安堵よりも、まだ何かが引っかかっているような険しさが残っていた。
エデンの後ろには緋山、亜爆もいる。三人とも現場の様子を見回し、すでにただ事ではないことを察していた。
「何があったの?」
エデンが尋ねる。
ナロクは一度だけ救急車の方へ視線を向けた。先ほどまで自分が腕を掴んでいた男。自分を振りほどこうとしていた男。復讐のために力を使い、人を傷つけた男。その男は今、救急隊員たちによって車内へ運ばれている。
「犯人は……自首しました」
ナロクが答えた。
「自首?」
緋山が目を丸くする。
「はい。俺が説得して……本人も、自分がやったことを認めてくれました」
ナロクはそこで一度言葉を止めた。自分の手を見る。先ほどまで男の腕を掴んでいた手だった。あのとき、離さなかった。何度も逃げようとする男を、それでも離さなかった。それが正しかったのか。今でも完全には分からない。それでも――
「ただ……」
ナロクの声が低くなる。
「その直後、急に苦しみだしたんです」
エデンの表情が変わった。
「急に?」
「はい」
ナロクは頷く。
「突然、胸を押さえて……それから『契約』って言いました」
亜爆が眉を寄せる。
「契約?」
「俺も何のことか分からなかったんです。でも、その人の背中に……黒いラベジニウムが埋め込まれていました」
その言葉に、三人の間に緊張が走った。ラベジニウム。ECOに所属する者なら、その危険性を知らない者はいない。能力を引き出すためのもの。そして、人間の身体そのものに大きな影響を与えるものでもある。
「背中に……?」
緋山が呟く。
「はい。しかも、それが突然……崩れ始めたんです」
ナロクは救急車へ目を向ける。
「あの人は契約と言っていた。ラベジニウムが契約によって手に入れたものなら」
言葉を選びながら、ナロクは続けた。
「あのラベジニウムは、ただ本人が手に入れたものじゃないんじゃないかと思っています」
エデンが静かに問い返す。
「誰かから渡された?」
「はい」
ナロクははっきりと頷いた。
「犯人にラベジニウムを提供した人物がいるんじゃないかと思います」
風が吹き抜ける。現場に張られた規制線が、かすかに揺れた。さっきまで人々の声やサイレンで満たされていた通りが、今は妙に静かに感じられる。
亜爆が腕を組む。
「つまり……今回の事件は、あの男一人だけのものじゃない可能性があるってことですか」
「そうです」
ナロクは答える。
「少なくとも、あのラベジニウムについては、誰かが関わっている可能性が高いと思います」
エデンは何も言わなかった。ただ、救急車の方を見つめていた。犯人は自分の意思で復讐を始めた。だが、その背中には黒いラベジニウムが埋め込まれていた。そして、自首を決めた直後に、それが崩れた。偶然とは思えない。
「……契約、か」
エデンが小さく呟く。
ナロクが頷く。
「はい」
エデンの中で、契約という言葉が妙に引っ掛かった。何気なく聞き流すことができなかった。まるで、ずっと忘れていた何かを突然引きずり出されたような感覚。
エデンはナロクの言葉を頭の中でもう一度繰り返す。
――契約。
「…………」
エデンの視線が、ゆっくりと自分の左手へ落ちた。
そこには、普段と変わらないように見える黒いラベジニウムがある。ケイ。エデンと共にある、黒いラベジニウム。そして――その出会いは、エデンにとって決して忘れることのできないものだった。まだECOにも所属していなかった頃。
ラベジニウムというものが何なのかすら、詳しく知らなかった頃。エデンは、手元にあった黒いラベジニウムを見つめていた。その石から――声が聞こえた。最初は、自分の聞き間違いだと思った。けれど、確かに聞こえた。低く、静かな男の声。
「力が欲しいなら」
あのときの空気まで、エデンの記憶の中から蘇ってくる。手の中にある黒いラベジニウム。そして、自分にだけ届いた声。
「契約すると言え」
「…………」
エデンは黙ったまま、左手を握る。あの言葉。あの声。そして――契約。すべてが、今ここで繋がったような気がした。
「エデン先輩?」
緋山が声をかける。
しかし、エデンはすぐには答えなかった。
ナロクが話した犯人の状況。背中に埋め込まれていた黒いラベジニウム。突然の苦痛。そして、最後に口にした「契約」という言葉。偶然とは思えなかった。エデンはゆっくりと顔を上げる。その表情から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。
「……俺も」
小さな声だった。
「契約って言葉……聞いたことがある」
ナロクが目を見開く。
「え?」
エデンは左手を見る。そこにあるケイは、何も語らない。ただ静かに、エデンと共にある。けれどエデンには分かっていた。あのとき、自分に力を与えた存在。自分の前に現れた声。そして、自分とケイを結びつけた言葉。
「……ラベジニウムから、声が聞こえたんだ」
亜爆が黙ってエデンを見る。
エデンは過去を思い返すように、ゆっくりと言葉を続けた。
「『力が欲しいなら』って」
一拍。
「『契約すると言え』って」
その場に、沈黙が落ちた。誰も言葉を挟まない。ただ、エデンの左手にある黒いラベジニウムだけが、静かに存在している。エデンは思う。
――あの男にも、同じような声が聞こえたのだろうか。




