契約破棄
犯人はしばらく俯いたまま、何も言わなかった。
夜風が二人の間を静かに通り抜ける。
やがて、男はゆっくりと顔を上げた。
「……俺、自首する」
ナロクは少しだけ目を見開いた。
男の表情には、先ほどまでの激しい怒りはなかった。そこにあるのは、疲れと後悔。そして、自分がしてしまったことから逃げないという決意だった。
「……分かりました」
ナロクは頷く。
「俺も一緒に行きます」
そう言って、ナロクは通信端末を取り出した。
「アグレスさん」
『どうしたの?』
「犯人を見つけました」
『……! 本当に!?』
「はい」
ナロクは犯人を一度見る。
男は静かに立っていた。
「自首するそうです」
『分かった。すぐそっちに――』
その時だった。
「……っ」
犯人の身体が突然揺れた。
「……?」
ナロクが振り向く。
「どうしました?」
男は答えない。胸元を押さえ、苦しそうに息をする。
「う……」
「!」
ナロクはすぐに駆け寄った。
「どうしました!」
男の身体が大きく傾く。
「おい!」
ナロクが支える。
先ほどまで普通に話していたはずなのに、男の様子は明らかにおかしかった。
「しっかりしてください!」
ナロクは男の顔を覗き込む。
「何があったんですか!?」
男は苦しそうに息をしながら、かすかに口を開いた。
「……わから……ない……」
ナロクの表情が変わる。通信端末から、アグレスの声が聞こえていた。
『何があったの!?』
ナロクは男を支えながら答える。
「分かりません……!」
男の身体が、さらに大きく揺れた。
「さっきまで普通だったのに……突然、苦しみ始めました!」
ナロクの頭の中に、嫌な予感が走る。
――これは、事件とは別の何かが起きている。
そんな感覚だった。ナロクは、苦しそうに息をする男の身体を支えながら、必死に声をかけ続けていた。
「大丈夫ですか!?」
しかし男は答えない。先ほどまで確かに会話をしていた。自分から自首すると言った。その決意を語っていた。それなのに――突然、何かを思い出したように表情を変えた。
「……」
男の目が大きく見開かれる。そして、震える唇から小さな声が漏れた。
「……そうか……」
「?」
ナロクが顔を近づける。
「何ですか?」
男は苦しそうに呼吸しながら、呟いた。
「……契約……」
「契約?」
ナロクの眉が動く。
「一体どういう――」
「せ……背中に……」
男は必死に言葉を絞り出す。
「ラベジニウムが……」
「……!」
ナロクの表情が変わった。
「背中に?」
男は小さく頷く。
ナロクは一瞬ためらった。だが、今は一刻を争う。
「失礼します!」
ナロクは男の服をめくった。そして――
息を呑んだ。
「……!」
背中。そこには、黒いラベジニウムが埋め込まれていた。ただ装着されているのではない。肌の奥へ深くめり込んでいる。黒い鉱石の表面には、見慣れない亀裂が走っていた。
「なんだ……これ……」
ナロクは目を疑った。
ラベジニウムの亀裂が広がっている。黒い表面から欠片が剥がれ落ちる。
「え……?」
さらに亀裂が広がる。
「ラベジニウムが……崩れてる……?」
ナロクは思わず手を伸ばしかけた。だが、触れることはできなかった。何が起きているのか分からない。ただ、目の前で黒いラベジニウムが少しずつ形を失っていく。
「一体、何が……」
その直後だった。男の身体から力が抜けた。
「!」
ナロクが慌てて支える。
「大丈夫ですか!?」
返事がない。
「しっかりしてください!」
ナロクは何度も呼びかける。
しかし、男は完全に意識を失っていた。通信端末から、アグレスの声が聞こえる。
『ナロク! 何が起きてるの!?』
「分かりません!」
ナロクは男を支えながら、背中を見つめる。黒いラベジニウム。それが、まるで役目を終えたかのように崩れている。
(契約……)
先ほど男が口にした言葉が、頭から離れない。
(契約って……誰と?)
その時。
少し離れた建物の陰。街灯の光が届かない暗がりに、一つの人影が立っていた。ナロクは気づかない。ただ、倒れた男のことで精一杯だった。人影は、二人の様子を静かに見つめていた。顔は見えない。ただ、その視線だけが冷たく男へ向けられている。
そして――
小さな声が夜の街に落ちた。
「……契約は破棄だ」
その言葉を最後に、人影は暗闇の中へ消えていった。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「……!」
ナロクが顔を上げる。
赤色灯を回した警察車両が、夜の道路を走ってくる。続いて、救急車も到着した。
「こちらです!」
ナロクが手を上げて知らせる。警察官たちが駆け寄り、倒れている男の状態を確認する。
「意識は?」
「ありません。突然、苦しみ始めて……」
救急隊員が男の身体を慎重に確認していく。
「搬送します!」
ストレッチャーが運ばれてきて、男は素早く乗せられる。ナロクはその様子を見つめていた。ほんの少し前まで、目の前の男は怒りに身を任せ、復讐を続けようとしていた。それが今では、意識を失ったまま救急車へ運ばれている。
「新人隊員君!」
聞き慣れた声がした。振り向くと、アグレスがこちらへ駆けてくる。
「大丈夫!?」
「俺は大丈夫です」
ナロクは頷いた。
「でも……」
視線が救急車へ向く。
「犯人が突然、苦しみ始めたんです」
アグレスの表情が険しくなる。
「突然?」
「はい。自首すると言って、俺が連絡していた時でした」
ナロクは、その時のことを順番に説明していく。
犯人が苦しみ始めたこと。「契約」という言葉を口にしたこと。そして――背中にラベジニウムが埋め込まれていたこと。
「背中にラベジニウム?」
アグレスが驚く。
「はい」
ナロクは頷く。
「服をめくって確認したら、肌にめり込むように埋め込まれていました」
「そんな……」
アグレスは言葉を失う。
「それが突然、崩れ始めたんです」
ナロクは自分の手を見る。まだ、あの黒いラベジニウムの光景が頭から離れない。
「表面に亀裂が入って……そのまま崩れていきました」
「ラベジニウムそのものが?」
「はい」
アグレスは救急車へ視線を向ける。
「それで、本人が『契約』と言った……」
「そうです」
ナロクは頷く。
「俺も気になっています」
少し考えてから、ナロクは続ける。
「誰かとラベジニウムをもらう契約をしていたんじゃないでしょうか」
「誰かと?」
「分かりません。でも……とにかくラベジニウムを犯人にあげた人物がいることは確かです」
その時、救急車の扉が閉まった。サイレンが再び鳴り響く。車両がゆっくりと走り出し、やがて夜の街へ消えていく。ナロクは、その後ろ姿を見送った。
「……」
事件は解決した。そう思った直後だった。けれど――
本当に終わったのだろうか。
六人の被害者。復讐を企てた犯人。そして、身体に埋め込まれていた謎のラベジニウム。ナロクは拳を握る。
「……まだ、何かある」
アグレスも、救急車が消えていった方向を見つめていた。二人とも、同じことを感じていた。
この事件の裏には――まだ誰も知らない何かが隠されている。




