最後の一線
ナロクの言葉が、犯人の中にある激しい怒りをほんの一瞬だけ鎮めた。
「これ以上、自分まで傷つけるようなことをしないでください」
その言葉を聞いた犯人は、黙り込んだ。先ほどまで激しく抵抗していた身体が、わずかに止まる。握り締めていた拳からも、ほんの少しだけ力が抜けた。まるで、張り詰めていた糸が一瞬だけ緩んだようだった。けれど――
それは長くは続かなかった。犯人の表情が、再び歪む。
「……じゃあ」
低い声だった。
「じゃあ、俺は苦しんだまま何もするなってことか!?」
ナロクの手に力が入る。
「……」
「俺が何年苦しんだと思ってる!」
犯人の声が夜の街に響く。
「何もできなかったんだぞ!」
その声には、怒りだけではなかった。悔しさ。憎しみ。そして、長い間誰にも理解されなかった孤独。様々な感情が混ざり合っていた。
「なのに……!」
犯人はナロクを睨む。
「あいつらは……!」
声が震える。
「いじめてた奴らは、罰を受けずにのうのうと生きるのか!?」
ナロクは答えられなかった。
掴んでいる腕を離すことはしない。顔をわずかに逸らした。視線が地面へ落ちる。
(……)
犯人の言葉が、胸に引っかかっていた。
自分が今言っていることは、本当に正しいのだろうか。もちろん、人を傷つけることが許されるわけではない。それは分かっている。復讐のために誰かを襲うことも、傷つけることも、間違っている。
けれど――
(この人が受けた苦しみは……?)
ナロクは思う。
もし、自分がこの人の立場だったら。
もし、自分が長い間いじめられていたら。
もし、誰にも助けてもらえず、誰にも苦しみを理解してもらえなかったら。
そしてある日突然、自分だけが力を手に入れたとしたら。
(俺も……)
一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎる。
(俺も、同じことをしてしまったんじゃないか?)
ナロクは唇を噛んだ。正しい言葉を言うだけなら簡単だ。「復讐はいけない」「人を傷つけてはいけない」そんなことは誰だって言える。でも――
目の前にいる人間は、理屈だけでは片づけられないほどの苦しみを抱えている。
ナロクは、犯人の腕を掴んだまま動かなかった。そして、ゆっくりと顔を上げる。犯人を見る。怒りに満ちた顔。それでも、その奥にはまだ何かが残っている。完全に壊れてしまったわけじゃない。そう、ナロクには感じられた。
(……この人なら)
ナロクは思う。
(まだ戻れる)
この人は今こうして自分の言葉に反応している。怒りながらも、ナロクの言葉を聞いている。
それなら――
まだ間に合う。ナロクは、もう一度しっかりと犯人の顔を見つめた。
「何度でも言います」
犯人が顔を上げる。
ナロクの目には、迷いが残っていた。
それでも、その奥には確かな意志があった。
「こんなことはやめましょう」
「……」
「あなたは戻れます」
犯人の目が揺れる。
「……もう戻れるか」
小さな声だった。そして、次の瞬間。
「俺は六人傷つけたんだぞ!」
その叫びは、怒りというより――
自分自身を責めるような響きを帯びていた。
ナロクは何も言わず、その言葉を受け止める。六人。すでに傷つけてしまった人たちがいる。それは消すことのできない事実。それでも、ナロクは手を離さなかった。
まだ、この人をここで終わらせるわけにはいかない。そう強く思っていた。
ナロクは、しばらく何も言わなかった。
目の前にいる男の腕を掴んだまま、その顔を見つめている。男の言葉が、ナロクの中に残っていた。
――俺は六人傷つけた。
それは事実だった。どんな理由があったとしても、傷つけたという結果が消えるわけではない。ナロク自身も、そのことを否定するつもりはなかった。だからこそ、簡単な言葉でこの男を許すことも、全てを肯定することもできない。けれど――
ナロクは、ふと視線を落とした。これまで聞いてきた被害者たちの姿が頭に浮かぶ。肩についた傷。腕についた傷。胸についた傷。事件現場で見た、彼らの怯えた顔。そして――その全員が、生きている。
ナロクはゆっくりと顔を上げた。
「あなたは確かに人を傷つけた」
犯人は黙っている。
「それは変わらない事実です」
ナロクの声は静かだった。責めるようでもなく、慰めるようでもない。ただ、事実を伝える声だった。
「でも……」
ナロクは言葉を続ける。
「殺してはいない……」
犯人の表情が僅かに動いた。
「……」
何も言わない。
ナロクは、もう一度被害者たちの姿を思い出す。もし本当に犯人が、手に入れた力を使って復讐することだけを考えていたのなら。もっと酷いことだってできたはずだ。突然現れることができる。相手の不意を突くことができる。身体能力も、普通の人間より遥かに高い。それでも――
「力を得ても……あなたは決して人殺しまではしなかった」
犯人の目が揺れた。
「あなたには、それが出来た」
ナロクは真っ直ぐに男を見る。
「それでもしなかったのは……」
少しだけ間を置く。
「心のどこかで、人は殺したくないって強く思ってたからじゃないですか?」
静寂が訪れた。夜の街を走る車の音が、遠くから聞こえる。先ほどまで激しくぶつかり合っていた二人の間に、奇妙なほど静かな時間が流れていく。
犯人は何も言わない。
ナロクも急かさなかった。ただ、腕を掴んだまま待った。
数秒。十秒にも満たない、ほんの短い時間だった。しかし、その沈黙は長かった。やがて――
犯人の肩から力が抜けた。
「……」
身体が、ゆっくりと前へ傾く。
「……そうだよ」
力のない声だった。
ナロクが目を見開く。
犯人はそのまま俯いた。
「俺は……中途半端なんだよ」
握り締めていた拳が、ゆっくりと開いていく。
「力を得て……怒りにのまれて……」
声が震える。
「復讐を考えて……」
一つ一つの言葉を吐き出すたびに、これまで押し込めていたものが崩れていく。
「傷つけたけど……殺せなかった」
犯人は俯いたまま、動かなかった。
「殺す覚悟なんて……最初からなかったんだ」
ナロクは何も言わずに聞いていた。男の身体から、完全に力が抜けていく。さっきまでナロクを振りほどこうとしていた腕も、もう抵抗しない。ナロクはそれでも、手を離さなかった。そして――静かに口を開く。
「最後の一線を越えなかったあなたは……」
犯人が僅かに顔を上げる。ナロクは真剣な顔で、その目を見つめた。
「自分は立派だと思います」
「……」
犯人の目が揺れる。
「六人を傷つけたことを、なかったことにはできません」
ナロクは続ける。
「でも、あなたが人を殺さなかったことまで、否定する必要はないと思います」
男は再び俯いた。頬を伝うものがあった。ナロクは何も言わなかった。ただ、その場に立っていた。復讐に駆られた男と、それを止めた少年。二人の間には、まだ解決していないものがたくさん残っている。過去の傷も。そして、犯人が犯してしまった罪も。それらは決して消えない。それでもナロクは思う。人は、間違えた瞬間に全てが終わるわけじゃない。戻ることを選ぶ余地は、まだ残っている。
そして今、この男はその最初の一歩を踏み出したのだった。




