もう離さない
すっかり日が落ちた街には、仕事を終えた人々が行き交っていた。
ある男が一人、鞄を片手に歩いていた。
今日も何事もなく終わった。そう思っていた。
――その時だった。
男の目の前に、突然ひとつの円が現れた。
「……え?」
地面に浮かび上がった円。
男が足を止めた次の瞬間、その円の中から一人の男がゆっくりと姿を現した。
「久しぶりだなぁ」
男は顔を上げる。目の前に立つ人物を見て、困惑した。
「今までどんな気分で過ごしてた?」
「な、なんだお前……」
犯人は薄く笑う。
男はその顔を見つめ――次第に顔から血の気が引いていった。
「お、お前……」
声が震える。
「ま、まさか……」
犯人は笑った。
「そのまさまだ!」
男が後ずさる。
犯人は懐からナイフを取り出した。
「ずっと探してたんだよ」
一歩、踏み込む。
「お前を――」
ナイフが振り上げられた。
その瞬間。
「させるか!」
横から飛び込んできたナロクが、犯人の腕を掴んだ。ナイフが止まる。
「なに……!?」
犯人が驚いてナロクを見る。
ナロクは歯を食いしばりながら、腕に力を込めていた。
「早く逃げてください!」
男はその声に弾かれるように走り出した。
「ま、待て!」
犯人が追おうとする。
しかしナロクが腕を離さない。
「離せ……!」
「離しません」
「俺の邪魔をするな!」
犯人が力任せに腕を振り払おうとする。
だがナロクも必死に食らいつく。その時、犯人の足元に再び円が現れた。
「!」
ナロクはすぐに気づいた。このままでは逃げられる。
犯人が円の中へ沈み込む瞬間――
「逃がすか!」
ナロクは犯人の身体を強引に引き寄せ、円の外へ押し出した。
「なっ……!」
円の範囲から外れた犯人とナロク。犯人の身体は消えていない。
「円に入らないとワープは出来ないのか.....」
犯人の顔には怒りが浮かんでいた。
「俺の邪魔をするな!」
「……」
「俺は……あいつにも……」
犯人はナイフを握り直す。
「同じ苦しみを――」
その声には、抑えきれない憎しみが滲んでいた。ただの能力犯罪者ではない。この男には、明確な目的がある。そして、その目的を達成できるような力がある。
「……あなたが何をされてきたのかは知っています」
ナロクは静かに言った。
「でも」
拳を握る。
「だからって、他の人を傷つけていい理由にはなりません!」
犯人の目が鋭くなる。
「……お前に何が分かる」
「分かりません」
ナロクは即答した。
夜の街に、二人の視線がぶつかった。
復讐する者。それを止めようとする者。事件の過去が、今まさにナロクの前へ姿を現そうとしていた。
犯人はナロクを睨みつけた。
次の瞬間――
「ふざけるなぁ!」
「っ!」
犯人が腕を思い切り振り払った。
「うおっ!」
ナロクの身体が大きく弾き飛ばされる。
数メートルほど地面を滑り、ナロクはすぐに体勢を立て直した。
「……!」
腕が痺れている。ナロクは自分の腕を見ながら、驚きを隠せなかった。
(強い!)
ただの一般人ではない。
もちろん、犯人もラベジニウムを持っているのだろう。ラベジニウムは能力を使えるようにするだけのものではない。身体に適応した者には、程度の差こそあれ、筋力や反射神経、身体の耐久力を底上げする効果もある。だからこそ、ECOの隊員たちは一般人とは違う身体能力を持っている。
しかし――
(この人……思っていたよりずっと強い!)
ナロクは構え直した。
犯人は腕を振り払っただけ。それだけなのに、ナロクの身体が大きく吹き飛ばされた。
「俺の邪魔をするな……!」
犯人はナイフを握りながら、ナロクを睨む。
その目にあるのは、ただ激しい怒りだけ。
「俺は……あいつらに……!」
犯人が踏み込む。
「同じ苦しみを味わわせるんだ!」
ナロクは迫ってくる相手を見据えた。
この犯人は過去にいじめを受けていた。その怒りや憎しみが身体を動かしている。
(……この人は....一体どれだけの苦しみを味わって来たんだ?)
ナロクは拳を握り直す。
(それでも……!)
一歩、踏み出す。
「あなたを止めます!」
二人の距離が、一気に縮まった。
犯人の足元に、再び円が現れた。
「……!」
ナロクが目を見開く。
「くそ!」
犯人が円へ踏み込もうとした瞬間、ナロクは咄嗟に腕へ飛びついた。
「させない!」
「何度も俺の邪魔をするな!」
犯人が腕を振り払おうとする。
先ほどと同じように、凄まじい力がナロクの腕へ伝わった。
「ぐっ……!」
身体が引っ張られる。
このままでは振りほどかれる。犯人の腕が大きく動く。
「離せ!」
「くっ……!」
ナロクは必死に腕を掴み続けた。
(駄目だ……ここで逃がしてしまったら……)
脳裏に、さっきの男の怯えた顔が浮かぶ。
(あの人が襲われる……)
そして――目の前にいる犯人を見る。
(それに……)
(この人も……)
ナロクの手に力が入る。
「うおおおおおお!」
その瞬間だった。左手の甲に装着されたインターフェース。そこに埋め込まれたラベジニウムが、強く反応した。
「――!」
淡い光が走る。犯人がさらに腕を振り払おうとする。
「離れろ!」
だが――
離れない。
「な……!?」
犯人が何度も腕を振る。
それでも、ナロクの指はまったく離れなかった。
「なんだ……これ……!」
まるでナロクの手が、犯人の腕にくっついてしまったかのようだった。犯人が力を込める。それでも動かない。
ナロク自身も驚いていた。
(これは……)
指先に、妙な感覚がある。
(指が腕から離れない……)
ナロクは自分の手を見る。
(くっついてる?)
しかし、少し違う。
「……?」
掴んでいる部分が、異様に熱い。腕と手の間に何かが働いている。
(いや……感覚がおかしい)
犯人が力いっぱい腕を引く。
それでもナロクの手は離れない。
その瞬間――ナロクの頭の中に、一つの言葉が浮かんだ。
(摩擦……)
指先と相手の腕。触れ合っている二つの面。そこに生まれる力。
(摩擦力……!)
ナロクの目が見開かれる。
「これが……俺の能力……!」
犯人が必死に腕を振りほどこうとする。
しかし、もう先ほどのようにはいかない。ナロクの手は、まるでその腕を逃がさないために存在しているかのように、強く掴み続けていた。
「離せ……!」
「……もう、離しません」
ナロクは犯人を見据える。
その左手には、今までとは違う力が宿っていた。




