エデンにとっての当たり前
フェイルは、リュートと話しているシオンと緋山のもとへ近づいてきた。
手には二人が先ほどまで使っていた皿がある。
「どう? カレー、美味しかった?」
フェイルがそう尋ねると、シオンは少し姿勢を正した。
「はい。美味しかったです」
素直に答える。その隣では、緋山が何度もうなずいていた。
「とっても美味しかったです! こんなカレー食べたの、初めてです!」
「まあ、本当?」
フェイルが嬉しそうに笑う。
「そんなに喜んでもらえると、作った甲斐があったわね」
「本当に美味しかったです。具材も大きくて……それに、なんというか……」
緋山は少し考える。
「優しい味がしました」
「優しい味?」
「はい」
「ふふっ。変なこと言うわね」
そう言いながらも、フェイルは嬉しそうだった。
そして、二人の皿を片付けようとする。
「エデンが帰ってきたら、もう一度温め直してあげないとね」
そう言って、フェイルは皿を重ねた。そのときだった。
「待ってください」
緋山が椅子から立ち上がった。フェイルが振り返る。
「どうしたの?」
「皿洗い、手伝います!」
「え?」
「私、お世話になりっぱなしなので!せめてこれくらいは」
緋山はそう言って、空になった自分の皿を手に取る。
その様子を見ていたシオンも立ち上がった。
「ぼくも……手伝います」
「いいの?」
「はい。食べさせてもらったまま何もしないのは、ちょっと……」
フェイルは二人の顔を見る。そして、自分が持っている皿へ視線を落とした。
「まだ、お父さんと話していていいのよ?」
「いえ、大丈夫です」
緋山が笑う。
「むしろ、私たちも何かしたいです」
「……そう?」
フェイルは少しだけ考え、それから微笑んだ。
「じゃあ、お願いしようかしら」
そのとき、横で話を聞いていたリュートが立ち上がった。
「いいじゃないか。俺も手伝うぞ」
「あなたまで?」
「客人二人にだけ働かせるわけにもいかんだろ」
そう言って、リュートはフェイルの持っていた皿の一枚をひょいと取る。
「ほら、行くぞ」
「はい!」
緋山も続く。
「……はい」
シオンもその後ろについていった。台所へ向かう四人。少し前まで食事をしていた場所には、カレーの香りがまだ残っている。フェイルが蛇口をひねる。水の流れる音が、小さな家の中に響き始めた。
「シオンちゃんはそっちお願いできる?」
「はい」
「緋山ちゃんは洗ったものをそこのところに置いてくれる?」
「分かりました!」
「俺は何をすればいい?」
リュートが尋ねる。
「あなたは……」
フェイルが少し考える。
「じゃあ、お皿拭いてて」
「了解」
「お父さん、結構手際いいんですね」
緋山が感心したように言う。
「こういうのは昔からやってるからな」
リュートはそう言って笑う。
「まあ、フェイルに任せっぱなしにすると怒られるからな」
「聞こえてるわよ」
「ほらな」
「ふふっ」
シオンも思わず笑った。
食器を洗うだけなのに、不思議と居心地がよかった。ECOの支部で過ごしているときとは違う。任務の緊張感もない。エリアの危険もない。ただ、家の中に水の音と会話がある。それだけだった。
洗い終えた皿を乾かし終えると、シオンと緋山はリビングへ戻った。二人は並んで椅子に座る。
「……」
時計を見る。
エデンが家を出てから、もうしばらく時間が経っていた。
「エデンさん、まだ帰ってこないですね」
緋山が言う。シオンも時計を見る。
「ルーを買いに行くだけなら、そう時間はかからないはずなんですけど……」
「そうね」
フェイルはそう答えながらも、特に慌てた様子はない。
「まあ、あの子のことだから」
少し苦笑する。その言葉を聞いたリュートも笑った。
「昔からそうだからな」
「昔から?」
緋山が興味を示す。
「ええ」
フェイルが椅子に座る。
「エデンは昔から、どこかへ出かけると、なかなか帰ってこないのよ」
「寄り道するんですか?」
「そういうこと」
リュートが笑う。
「ただし、遊んでるわけじゃない」
「じゃあ、何をしてるんです?」
シオンが尋ねる。
リュートは少し考える。
「困ってる人を見つけてるんだよ」
「……?」
「昔からな」
リュートは懐かしそうに笑った。
「道に迷ってる人がいたら案内する。荷物を持てなくて困ってる人がいたら持つ。転んだ子供がいたら起こす」
フェイルも続ける。
「小さい頃なんてね、買い物に行かせたら、帰ってくるまでに何人助けてきたのか分からないくらいだったわ」
「そんなに……?」
緋山が驚く。
「一度なんて、買い物から帰ってくるまでに三時間くらいかかったこともあったな」
「三時間!?」
「本人は『すぐ帰ってきた』って言ってたけどな」
リュートが笑う。
「警察の事件を手伝ってたこともあったな」
「け、警察の事件を!?」
驚きっぱなしの緋山の横でシオンは何も言わずに聞いていた。その話を聞いていると、少し前にエリア・ストラスで見たエデンの姿が思い浮かぶ。
危険な状況でも、誰かを助けようとする。自分が傷つくことを考えるより先に、目の前の人間へ手を伸ばす。それはECOに入ってから身につけたものではない。もっと昔からだったのだ。それからしばらく、三人と二人で他愛のない話をした。ECOでの訓練の話。支部で起きたちょっとした出来事。エリア・ストラスでの任務。そして、エデンが昔どんな子供だったのか。
「エデン先輩、小さい頃からそんな感じだったんですか?」
緋山が笑いながら聞く。
「ええ」
フェイルが答える。
その言葉に、シオンは少しだけ反応した。
「……今も、そういうところがありますよね」
リュートも頷く。
「良くも悪くも、昔から変わらん」
シオンと緋山は時折笑いながら、その話を聞いていた。けれど――
時間は少しずつ過ぎていった。時計の針が進む。
「……」
緋山が時計を見る。
「……遅いですね」
シオンも玄関の方を見る。
「確かに……」
ルーを一つ買いに行っただけ。それなのに、もうかなりの時間が経っている。
フェイルも時計へ目を向けた。
「ちょっと遅いわね」
今度は、少しだけ眉をひそめる。
「電話してみるか?」
リュートが尋ねる。
「もう少し待ってみましょう」
フェイルはそう言った。
「エデンなら、何かあったとしても……」
そこで一度言葉を止める。
「……きっと、誰かを助けてるんでしょうね」
リュートが苦笑した。
「だろうな」
その瞬間だった。玄関から、ガチャリ。と、鍵の開く音がした。
三人が一斉に玄関を見る。続いて、
「ただいまー」
聞き慣れた声が響いた。
「エデンさん!」
緋山が思わず声を上げる。玄関から入ってきたエデンは、買い物袋を手にしていた。表情はいつも通り。疲れている様子もなければ、焦っている様子もない。まるで何事もなかったかのようだった。
フェイルはそんな息子を見て、呆れたように腰へ手を当てる。
「エデン」
「ん?」
「ルー1つに何してたの?」
「……」
エデンが一瞬だけ目を逸らした。
「いや、それがさ……」
買い物袋を置く。
「おばあちゃんが道に迷ってて、道案内してたんだ」
「それで?」
「道案内してたら、風船が木に挟まってて泣いてる子がいて」
シオンと緋山は黙ってエデンを見る。
エデンは気にせず続ける。
「風船を取ってあげた後、そのままおばあちゃんを目的の場所まで案内して……」
フェイルが呆れた顔をする。
「それから?」
「ルーを買いに行ってたら、コンタクトを無くしてたお兄さんがいて」
「……」
「探すの手伝ってたら、時間かかっちゃった」
エデンは申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめん」
家の中が静まり返った。誰もすぐには言葉を出さなかった。緋山はエデンを見つめる。シオンも同じだった。
ついさっきまで、二人はリュートとフェイルからエデンの昔の話を聞いていた。困っている人がいたら、すぐに助けに行く。昔から変わらない。自分の身を顧みないところがある。
そんな話を聞いた直後に――
本人がこれである。緋山の口元が少し緩む。
「……ふふっ」
最初に笑ったのはフェイルだった。
「やっぱり、エデンは昔から変わってない」
「ルー1つ買うだけで、よくまあそこまで寄り道できるもんだ」
リュートも呆れたように笑う。
「寄り道っていうか……」
エデンは本気で不思議そうな顔をする。
「困ってたから」
「それは分かってるわよ」
フェイルが笑う。
「……?」
エデンは首を傾げる。
「それに、風船は取ってあげないと泣いてたし」
「そういうところよ」
フェイルは優しく笑った。
「あなたは、そういう子なの」
エデンは何を言われているのかよく分からないような顔をしている。
「そうかな?」
「そうよ」
フェイルは笑う。
「昔からずっとね」
そのやり取りを見ていた緋山は、胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。そして、隣に座るシオンを見る。
シオンもまた、静かにエデンを見ていた。
二人は今日、エデンの家に来た。先輩がどんな人なのか。ECOの隊員として何を考えているのか。そして、自分たちはこれからどんな先輩になればいいのか。そんなことを知るためでもあった。
けれど今、シオンは一つだけ分かった気がした。エデンは、特別なことをしているわけではない。困っている人がいたら助ける。目の前に助けを求めている人がいたら、手を伸ばす。それをエデンは、特別なことだと思っていない。ただ、「困っているから助ける」それだけなのだ。それがエデンにとっては、当たり前なのだ。
「……なるほど」
シオンが小さく呟いた。
緋山が振り向く。
「何がですか?」
シオンは少しだけ考えてから、エデンを見る。そして、穏やかな表情で答えた。
「……エデンがどういう人なのか、少し分かった気がする」
「どういう人です?」
「うまく言えないけど……」
シオンはエデンを見る。
「きっと、あの人は『助けよう』って考えてから動いてるんじゃないんだと思う」
「え?」
「困ってる人がいる。だから助ける。それだけなんじゃないかな」
緋山は少し黙った。そして、先ほどのエデンの言葉を思い出す。
「風船は取ってあげないと泣いてたし」
その言葉には、迷いも、格好つけたところもなかった。緋山も小さく笑う。そのとき、エデンが二人へ振り返った。
「二人とも、どうしたの?」
「いや」
シオンが首を横に振る。
「なんでもない」
「そう?」
「うん」
シオンは微笑む。
今日ここへ来る前よりも、少しだけ先輩というものが分かった気がした。目の前にいる誰かを見て、その人のために手を伸ばせること。それもまた、先輩として大切なことなのかもしれない。




