先輩としての振る舞い
休日に入ってから、シオンは寮の自室で一人、ベッドの上に座っていた。
窓から差し込む昼の光が、床に細長い影を作っている。任務のない静かな時間だった。訓練の声も、廊下を行き交う隊員の足音も、普段よりずっと少ない。
それでもシオンの頭の中には、エリア・ストラスでの出来事が何度も浮かんでいた。特に、フルトのことだった。シオンはフルトの担当の先輩だった。なのに、任務中にフルトへ十分な指示を出せなかった。
あのとき、自分がもっと早く判断していれば。もっと周囲を見ていれば。フルトが危険な目に遭うこともなかったかもしれない。そうシオンは考えている。
シオンは膝を抱え、しばらく黙り込む。
「……ぼくは、先輩なんだから」
小さな声が部屋の中に落ちた。怪盗として活動していた頃なら、こんなことを深く考えなかったかもしれない。今まではラナン・キュラスが兄としてシオンを支えてくれていた。けれど、今は違う。自分には後輩がいる。任務では、後輩の命を預かる立場になる。それなら、もっと先輩らしくならなければならない。シオンは顔を上げた。
「……先輩としての振る舞いを、ちゃんと覚えないと」
そして、一つの考えが浮かんだ。自分以外の先輩、エデン、ドロイ、亜爆の三人。彼らはシオンよりも長くECOに所属している。何度も危険な任務を経験し、仲間と共に戦ってきた。ならば、普段の彼らの行動を見れば、何か参考になるかもしれない。
「まずは……エデンを見てみよう」
そう呟くと、シオンは立ち上がった。
その頃。アモリス支部の寮から、一人の少年が外へ出ようとしていた。エデンだった。今日は任務がない。大山からも数日の休養を命じられている。エデンはそんな休日を利用して、久しぶりに実家へ帰るつもりだった。支部の建物を出ると、少しだけ涼しい風が吹いてくる。
「……実家に帰るの、久しぶりだな」
独り言を呟きながら、エデンは歩き始めた。その少し後ろ。一定の距離を保ちながら、シオンがついてきていた。帽子を深くかぶり、物陰を利用しながら歩く。どう考えても怪しい。だが、本人はいたって真剣だった。
「……これなら気づかれない」
シオンは小さく呟く。
しかし、エデンはまだ気づいていない。そのまま二人の距離は少しずつ離れていく。
――そのときだった。
「……あ」
シオンが足を止めた。前方から、こちらへ向かって歩いてくる人物がいた。短い黒髪。見覚えのある姿。緋山天狐だった。
「緋山……?」
シオンが思わず声を漏らす。緋山もシオンに気づいた。
「あっ、シオン先輩!」
互いに顔を見合わせる。しかし、二人ともすぐに同じ方向へ視線を向けた。少し先を歩くエデン。そして、そのエデンを追いかけている自分たち。緋山が小声で尋ねる。
「シオン先輩、こそこそ隠れて何をしてるんですか?」
「それは……」
シオンは答えに詰まった。
「……先輩としての振る舞いを学びに」
「え?」
緋山は目を丸くした。
シオンは真剣だった。
「エリア・ストラスで、ぼくはフルトにちゃんと指示を出せなかった。先輩として、もっとしっかりしなきゃいけないと思ったんだ」
「なるほど……」
緋山は腕を組み、少し考える。そして、何かを思いついたように頷いた。
「じゃあ、私も一緒に行きます!」
「え?」
「後輩ですから! 先輩のことは知っておかないと!」
「……いや、声が大きい」
「え?」
「静かに」
シオンが慌てて緋山の口元へ指を立てる。だが、もう遅かった。少し前を歩いていたエデンが足を止めた。
「ん?」
エデンが振り返る。
「今、誰か……」
シオンと緋山の表情が固まった。
「……!」
「……!」
二人はほぼ同時に近くの物陰へ身を隠した。
エデンは周囲を見回す。しかし、そこに人影はない。
「気のせいかな?」
そう呟くと、エデンは再び歩き始めた。足音が遠ざかっていく。二人はしばらく動かなかった。
やがてシオンが、緋山を横目で見る。
「……エデンのことを知りたいなら、わざわざ隠れる必要ないでしょ」
「……」
緋山は少し気まずそうに視線を逸らした。
「エデン先輩は休養中ですから」
「うん」
「なら、エデン先輩に迷惑はかけられないです」
シオンは少し考える。
「だから、こっそり?」
「はい」
緋山は真顔で頷いた。
シオンは思わずため息をついた。けれど、その直後。少しだけ口元が緩んだ。
「……じゃあ、行こうか」
「はい!」
二人は再びエデンの後を追い始めた。もちろん、エデン本人はそのことを知らない。休日のはずだった。任務もない。戦いもない。ただ実家へ帰るだけの、穏やかな一日になるはずだった。しかしその後ろでは、二人の後輩が「先輩を知る」という妙な目的のために、こっそりとエデンを追跡していた。
エデンは家の前まで来ると、懐から鍵を取り出した。見慣れた鍵を鍵穴に差し込み、軽く回す。カチャリ、と小さな音が響いた。
「ただいま」
そう呟きながら、エデンは扉を開けて家の中へ入っていく。その様子を、少し離れた場所からシオンと緋山が見ていた。
二人はエデンが家の中へ入っていくのを見届けると、同時に顔を見合わせた。
そして、視線を家の扉へ戻す。扉はゆっくりと閉まっていった。
「……」
「……」
しばらく沈黙が続く。緋山が恐る恐る口を開いた。
「……勝手には入れないですよね?」
シオンは扉を見つめたまま固まっていた。
「……」
「シオン先輩?」
「……家に入れないってこと、考えてなかった……」
「えぇ……」
二人は途方に暮れた。ここまで来ることだけを考えていた。エデンが普段どんな生活をしているのかを知りたい。先輩としての振る舞いを学びたい。そんな目的で後をつけてきた。しかし、実家に着いたところで問題が発生した。当然ながら、他人の家に勝手に入るわけにはいかない。
緋山が困ったようにシオンを見る。
「ど……どうします?」
「どうしよう……」
シオンも真剣に悩んでいる。
二人が扉の前で立ち尽くしていると、そのときだった。
「……エデンのお友達か?」
突然、背後から声がした。
「えっ!?」
二人は同時に振り返った。
そこには、一人の男性が立っていた。年齢を重ねた男性だった。手には杖が握られている。ゆっくりと歩いてきたらしく、二人から少し離れたところで立ち止まっていた。突然声をかけられた二人は、完全に固まってしまう。
緋山は男性の顔を見てから、家を見た。そして、もう一度男性を見る。
「えっと……もしかして……」
シオンも同じことを考えたらしい。
「エデンの……お父さんですか?」
男性は少し目を見開いた。それから、穏やかな表情を浮かべる。
「そうだ。俺はエデンの父。リュートだ」
エミット・エデンの父、リュート。かつてECOに所属していた人物でもある。
二人は慌てて姿勢を正した。
「は、初めまして! 緋山天狐です!」
「シオンです」
「そうか。二人ともエデンの友達なんだな」
「エデンさんの後輩です!」
緋山が勢いよく答える。
その声の大きさに、リュートは少しだけ笑った。
「それなら、そんなところに立っていないで入りなさい」
「え?」
二人は顔を見合わせる。
「でも……」
「エデンを訪ねてきたんだろう?」
「……はい」
「なら、遠慮する必要はない」
リュートはそう言うと、杖を使いながら家の扉へ近づいていった。二人はその後ろについていく。先ほどまで、どうやって家の中へ入ればいいのか悩んでいたのが嘘のようだった。
「お邪魔します……」
緋山が小さな声で言う。
「お邪魔します」
シオンも続いた。
家の中へ入ると、二人は少し緊張した様子で周囲を見回した。エデンが普段暮らしている場所。支部で見ている姿とは違う、エデンの生活がそこにはあった。そして、少し先からエデンの声が聞こえてくる。
「父さん?」
リュートに続いて部屋へ入ってきた二人を見て、エデンは目を丸くした。
「……なんだ、ついてきてたの二人だったんだ」
シオンと緋山は気まずそうに立っている。
エデンは二人を見て言う。
「普通に話しかけてくれたらよかったのに」
「いや、その~」
緋山が言葉に詰まる。
シオンも少し目を逸らした。
「先輩の生活を知ろうと思って……」
「だからって、後ろからついてくる?」
「……ごめん」
シオンが素直に謝る。
エデンは呆れたように息を吐いた。だが、怒っている様子はなかった。むしろ少し可笑しそうだった。
「別にいいけどさ」
そのとき、奥から別の足音が聞こえてきた。
「お客さんが来てるの?」
エデンの母だった。二人を見ると、穏やかな笑顔を浮かべる。
「あら、エデンのお友達?」
「ECOの後輩だよ」
エデンが答える。
「まあ」
エデンの母は嬉しそうに二人を見る。
「わざわざ来てくれたの」
「私、エデンの母。フェイルです」
「ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます!」
緋山が頭を下げる。
シオンも続いて頭を下げた。
「ありがとうございます」
フェイルは二人に座るよう促すと、すぐに台所へ向かった。ほどなくして、三人の前に温かいお茶が置かれる。湯気がゆっくりと立ち上っていた。
「どうぞ」
「いただきます」
緋山は嬉しそうに湯呑みを手に取った。
シオンも静かにお茶を見る。
その向かいでは、エデンが少し気の抜けた様子で座っている。戦場では仲間を守るために走り、支部では後輩を指導する立場になった少年。しかし今は、ただ家に帰ってきた一人の息子だった。シオンはそんなエデンの姿をじっと見つめる。これまで自分が見てきたエデンとは、少し違っていた。
「……」
緋山も同じようにエデンを見ている。先輩を知るためについてきたはずだった。けれど、二人が見つけたのは、戦うECO隊員としてのエデンだけではなかった。その家には、エデンを待っている家族がいた。そして二人は、そのことを少しずつ知っていくことになる。




