6年前の記憶
六年前――
レインダ村。
海や豊かな森に囲まれた小さな村は、朝から穏やかな空気に包まれていた。木々の間から差し込む木漏れ日。鳥のさえずり。潮風に揺れる草木の音。その全てが、幼いジエルにとっては当たり前の日常だった。
「いた!」
森の奥から元気な声が響く。まだ幼いジエルは、虫取り網を片手に木の幹を見上げていた。大きな甲虫が枝に止まっている。
「逃げんなよ……」
慎重に網を伸ばす。あと少し。その瞬間だった。ずどんと森全体が揺れるほどの轟音がなった。地面が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「え……?」
ジエルは驚いて音のした方を見る。木々が何本も根元から折れ、黒い土煙が空へ舞い上がっていた。その煙の中から、一つの巨大な影がゆっくりと姿を現す。ジエルは思わず息を呑んだ。それは、生き物と呼ぶにはあまりにも異質だった。身長は三メートル近く。漆黒の羽毛に覆われた細長い身体。人間にも鳥にも見える歪な骨格。逆関節に折れ曲がった脚は地面へ深く食い込み、鋭い鉤爪が土を抉る。背中には家一軒を覆い隠せそうなほど巨大な翼が折り畳まれていた。その翼からは、黒い羽が灰のように舞い落ちている。細長い首の先には、カラスを思わせる鋭い嘴。しかし、その裂けた嘴の奥には、人間の歯を思わせる白い牙が幾重にも並んでいた。そして何より恐ろしいのは、その瞳だった。白く濁った光を放つ眼。そこには怒りも殺意もない。まるで虫でも観察するような、知性だけが宿っている。その異形はゆっくりとジエルへ顔を向けた。
「……」
数秒。互いに動かない。やがて異形は静かに口を開く。
「ここにも人間がいたか……」
低く、感情のない声。それだけでジエルの身体は震え始めた。逃げたい。叫びたい。それなのに足が動かない。異形――エイリワスは、ゆっくりと一歩踏み出した。巨大な鉤爪が地面へ沈むたび、地面が鈍く揺れる。その圧倒的な存在感に、幼いジエルは恐怖で声も出せなかった。
「レート!!」
突然、森へ力強い声が響く。同時に、一人の青年が木々の間から飛び出してきた。ジエルより数歳年上。金色の髪に黒が混じった髪色。額には青色のはちまきが巻かれている。背中には機械仕掛けの長剣。その姿を見た瞬間、ジエルの表情が変わった。
「兄貴!」
ジエル・ゲート。ジエルの兄だった。ゲートは弟の前へ立ち、剣を抜く。金属音が森へ響いた。
「レート」
「ここから動くな」
短い言葉だった。だが、その背中は誰よりも頼もしかった。
エイリワスはゲートを見つめる。
「ほう」
興味を持ったように首を傾げた。
「ECOか....」
次の瞬間。エイリワスの姿が掻き消えた。黒い羽だけがその場へ舞い散る。
「!」
ゲートは一切動じない。
「――次元」
能力を発動する。空間がわずかに歪む。ゲートの姿もまた、その場から消えた。森には誰もいない。静寂だけが流れる。しかし──
鋭い金属音が空間を切り裂いた。エイリワスの真横。何もなかった空間が裂けるように開き、ゲートが姿を現す。異なる次元を経由するように、一瞬で間合いへ侵入したのだ。機械剣が一直線に振り抜かれる。斬撃はエイリワスの胸元を切り裂き、黒い羽毛が吹き飛んだ。エイリワスは数メートル後方まで滑り、大木へ激突する。土煙が舞う。静かに胸元へ触れる。傷口が深い。しかし、すぐに再生していく。
「……」
エイリワスはその白い瞳を細めた。そこに浮かんでいたのは怒りではない。純粋な好奇心。研究対象を見つけた学者のような目だった。
「なんだ、その力は……」
ゆっくりとゲートを見る。
「空間を飛び越えているのか」
エイリワスは小さく笑う。
「次元を渡る能力か」
「実に興味深い」
その言葉を聞いたゲートは剣を構え直す。だが、その胸には嫌な予感が広がっていた。この怪物は自分の攻撃を警戒しているのではない。自分という存在そのものに興味を持ってしまった。その白い瞳は、敵を見る目ではない。新しい実験材料を見つけた研究者の目だった。
ジエルは太い木の陰へ身を隠し、震える身体を必死に押さえ込んでいた。木の幹にしがみつきながら、目だけを兄へ向ける。目の前で対峙しているのは、自分よりも何倍も大きな怪物。
漆黒の翼を持つ異形――エイリワス。
その圧倒的な存在を前にしても、兄であるジエル・ゲートは一歩も退いていなかった。剣を静かに構え、相手の動きを見据える。森を包む空気が張り詰める。エイリワスは白い瞳でゲートを見つめたまま、ゆっくりと右腕を持ち上げた。まるで何かを観察するような仕草だった。
「……?」
ゲートは眉をひそめる。
(来る――)
剣を握る手に力が入る。だが、エイリワスはそのまま腕を振り下ろしただけだった攻撃らしい攻撃は何も飛んでこない。次の瞬間だった──
地面が激しく揺れた。木々が大きく揺れ、枝葉が一斉に落ちる。
「なっ……!」
ゲートはすぐに足を踏み込み、体勢を崩さないよう踏ん張る。視線はすぐ弟へ向いた。
「レート!大丈夫か!」
木にしがみつくジエルは突然の揺れに耐え切れず、その場へ座り込んでいた。
「兄貴……!」
泣きそうな声が森へ響く。
その直後、山の方角から凄まじい轟音が鳴り響いた。鳥たちが一斉に飛び立ち、地鳴りが続く。ゲートの表情が変わる。
(崖崩れ……!)
山肌が崩れ、大量の岩と土砂が谷へ流れ落ちている。地震はエイリワスが起こしたものだった。村にも被害が出ているかもしれない。ゲートは歯を食いしばる。
(まずい……!)
すぐにでも目の前のエイリ星人を倒し、村へ向かわなければならない。そう判断し、一気に踏み込もうとした瞬間だった。エイリワスは今度は腕を横へ払った。その動きと同時に、黒い影が何十体も飛んできた。
「っ!」
それはエイリ星人だった。弾丸のような速度でゲートへ襲い掛かる。ゲートは剣を振るう。銀色の軌跡が森を走った。迫るエイリ星人を次々と真っ二つへ切り裂く。だが。倒れたはずの身体は灰にならない。黒い肉片が蠢き、再び形を作り始めていた。ゲートの瞳が鋭くなる。
「殺しても消滅しないエイリ星人がいたのは……」
剣を構え直し、エイリワスを睨む。
「お前の仕業か?」
エイリワスは淡々と答える。
「そうだ」
短い返事。それだけだった。そして再び腕を振るう。今度は先ほど以上の数のエイリ星人が雪崩のように押し寄せる。ゲートは迷わず能力を発動した。
「――次元」
その姿が一瞬で消える。異なる次元へ身を移したゲートは、エイリ星人の群れをすり抜ける。しかし。
「読める」
エイリワスが静かに呟いた。ゲートが現れる位置を見抜いていた。次元から戻った瞬間を狙い、無数の爪が一斉に振り下ろされる。
「くっ!」
何とか剣で受け流すが、完全には避け切れない。肩を浅く裂かれ、地面へ着地する。エイリワスは白い瞳を細めた。
「面白い」
ゲートは傷口を気にすることなく、右拳を強く握る。手の甲へ埋め込まれたインターフェースが眩く輝いた。青白い光が腕全体へ走る。
「過剰適応―」
一瞬、世界が静まり返る。
「虚在」
その瞬間。ゲートの身体がわずかに揺らいだ。存在しているはずなのに、そこにいない。現実から半歩だけ外れたような、不思議な違和感。ゲートは一直線にエイリワスへ突っ込む。エイリワスが腕を振るう。巨大な鉤爪。黒い羽。無数のエイリ星人。その全てがゲートの身体を――
すり抜けた。
「……!」
エイリワスの白い瞳が初めて僅かに揺れる。ゲートは止まらない。高速の剣撃が次々とエイリワスを切り裂く。黒い羽が森へ飛び散った。エイリワスは後退しながらも、小さく呟く。
「実に興味深い」
ゲートは距離を取ると、左手を前へ突き出した。空間が裂ける。まるで空そのものへ傷を付けたような異様な穴だった。ゲートは剣へエネルギーを流し込む。
「はあっ!」
裂け目へ向けて何度も斬撃を放つ。数え切れないほどの斬撃が裂け目へ吸い込まれていく。やがて裂け目は閉じた。エイリワスが警戒した瞬間。ゲートは再び次元を発動する。
姿が消え――
一瞬でエイリワスの目前へ現れた。
「終わりだ!」
剣が振り抜かれる。エイリワスの右腕が宙を舞った。その一瞬の隙。ゲートは左手をかざす。裂け目がエイリワスの前で開く。
次の瞬間。裂け目へ蓄えられていた無数の斬撃が一斉に解放された。何重にも重ねられた斬撃がエイリワスの胴体を切断する。
しかし。上半身は黒い肉を蠢かせながら再生を始めていた。
「核は上半身...」
ゲートは核がどっちにあるかを確認する。すかさず踏み込み。再生が終わる前に剣を振るい続ける。肉片になるまで切り刻む。最後に首が宙を舞った。
だが、その頭部だけが黒い肉を伸ばしながら再生を始める。それを見たゲートの目が鋭く光る。
「そこか!」
叫びと同時に剣を振り下ろす。頭部が真っ二つに裂けた。その奥。核が露わになる。ゲートは一切ためらわず、その核へ剣を突き立てた。
――砕け散る。
甲高い破砕音が森へ響き、核は粉々に砕けた。




