死んでほしくない
病室は静まり返っていた。
時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。誰も口を開かない。天記は天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。その息は重く、長かった。何年も胸の奥へ押し込めてきたものを吐き出すように。そして、小さく目を閉じる。
「……ああ」
かすれた声が病室に響く。
「そうだよ……ジエル君」
その一言だけで、空気が変わった。エデンも亜爆も息を呑む。天記は震える手を胸の上で重ね、静かに言葉を続けた。
「僕は……君の記憶を消した」
その言葉は、まるで自分自身へ罪を言い聞かせるようだった。誰もすぐには反応できない。病室には、沈黙だけが落ちる。ジエルはただ天記を見つめていた。怒ることも、叫ぶこともできない。予想していた答え。それでも実際に本人の口から聞かされると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。天記はゆっくりと目を伏せる。
「本当は……もっと早く言うべきだった」
苦しそうに笑う。その笑みには、これまでの穏やかさはなかった。
「僕がこうなる前に……全部、君へ話すべきだった」
「でも……決心がつかなかった」
指先が小さく震える。
「君が思い出した時」
「どんな顔をするのか」
「それを考えるだけで……怖かった」
天記は唇を噛む。
「だから逃げたんだ、僕は」
「まだ向き合えてないんだ。ずっと目をそらしてる」
「ずっと隠し続けることなんて出来ないのに……」
そこで言葉が止まる。苦しそうに息を吸い、かすれた声で続けた。
「僕が死んだら……」
「結局、能力は解除されて……」
「うるせぇ!!」
病室中へ響くほどの声だった。ジエルが叫んでいた。その目には涙が浮かんでいる。
「死ぬとか言うんじゃねぇ!」
ベッドへ駆け寄る。
「死ぬな!」
その叫びに、エデンも亜爆も身体を震わせた。ジエルは肩を震わせながら天記を見つめる。
「もう……」
「もうこれ以上……」
声が震える。涙をこらえようとしても止まらない。
「いなくならないでくれよ……」
その一言には、今まで抱えてきた全ての喪失が込められていた。
「俺の故郷も……」
「お袋も……」
「親父も……」
「兄貴も……」
「村のみんなも……」
ジエルは涙を流しながら呟く。その声はいつもより弱々しかった。
「みんな、いなくなって……天記さんまで死んでほしくねぇよ……」
「頼むから……もう誰も……いなくならないでくれ……」
その言葉を聞いた天記は、ゆっくりと目を閉じた。頬を一筋の涙が伝う。こんなにも真っ直ぐな言葉を向けられる資格など、自分にはないと思っていた。
それでも。ジエルは自分を責めなかった。恨むのではなく、生きてほしいと願ってくれた。天記は震える手で涙を拭う。そして、小さく頷いた。
「……分かったよ」
優しい声だった。
「ジエル君」
ゆっくりとジエルを見る。その瞳には、もう迷いはなかった。
「僕の能力を解除する」
その言葉が病室へ静かに響く。長い間閉ざされていた記憶。天記が背負い続けてきた罪。その全てが、今まさに解き放たれようとしていた。エデンは固唾を呑み、その瞬間を見守る。亜爆も静かに拳を握る。誰も言葉を発さない。病室には、これから明かされる真実を待つ静寂だけが流れていた。
病室に流れていた静寂を破ったのは、ジエルだった。ゆっくりと振り返り、エデンと亜爆を見る。その表情には迷いがあった。それでも、覚悟は決まっていた。
「……エデン」
「亜爆」
少し間を置いて、小さく言う。
「ちょっと外、行っててくれ……」
その声は静かだった。エデンは何か言いかける。
「でも――」
しかし、その先の言葉は飲み込んだ。今のジエルには、自分たちが踏み込むべきではない時間が必要なのだと感じたからだ。亜爆も静かに頷く。
「……分かりました」
二人は何も言わず病室を出る。扉が静かに閉まり、室内にはジエルと天記だけが残された。時計の秒針だけが時を刻んでいる。天記はベッドの上で静かにジエルを見つめた。その目には申し訳なさと、どこか安堵したような色が混じっていた。
「ジエル君」
ゆっくりと口を開く。
「一つだけ……伝えておくね」
ジエルは黙って耳を傾ける。
「僕は君の記憶を消す時……君の記憶を覗かなかった」
その言葉にジエルは少しだけ目を見開く。天記は続ける。
「僕の能力なら、記憶を読むこともできた」
「でも……しなかった」
「君に何があったのかを詳しく知りたくなかったんだ」
「ごめんね、逃げてばかりで」
苦しそうに笑う。
「だから僕は……」
「君の身に何があったのか、本当のことは何一つ知らない」
「本当に、ごめんね」
その謝罪は、自分を許してほしいというものではなかった。ただ、隠し続けてしまったことへの、心からの謝罪だった。ジエルはしばらく黙っていた。やがて、自分の右手を差し出した。
「……謝んなくていい」
その一言だけだった。怒りも責める言葉もない。静かな声。
「頼んだ」
少しだけ笑う。
「天記さん」
天記はその手を見つめる。震える自分の手をゆっくりと伸ばし、そっと握った。温かかった。その温もりに、天記は目を細める。
「……ありがとう」
小さく呟く。そして、静かに息を吸った。使い続けた能力を今から解除する。天記の心にはまだ不安があった。それでも、今だけは迷わなかった。
「行くよ……」
ジエルは目を閉じる。
「解除――」
その瞬間。天記の手から淡い光が溢れた。優しく、静かな光。それは二人の手を包み込み、病室全体を淡く照らしていく。ジエルの頭の奥で、何かが軋む音がした。
長い間閉ざされていた扉の鍵が外れるような感覚。
霧が少しずつ晴れていく。忘れたはずの景色。聞いたことのある声。懐かしい匂い。ジエルの呼吸が乱れる。
「っ……!」
頭の奥へ、一気に膨大な記憶が流れ込んできた。閉ざされていた記憶が――
今、完全に戻り始めていた。




