抱え続けた罪
翌朝。
まだ朝日が昇りきらない時間だった。カーテンの隙間から差し込む淡い光が、静かな部屋を照らしている。ジエルはゆっくりと目を開けた。ベッドの上で身体を起こし、頭を押さえる。
「やっぱり思い出せねぇ……」
ぽつりと呟く。そして、そのまま考え込む。見覚えがあるはずなのに思い出せない記憶。普通なら、「忘れている」で終わる話だ。だが、違う。ジエルには確信があった。忘れているのではない。思い出せないようにされている。
「……そういうことか」
ジエルは小さく息を吐いた。記憶がなくなったのではない。誰かに消された。その可能性が頭の中で一本の線として繋がる。そして、その能力を持つ人物をジエルは知っていた。
「……天記さん」
その名を口にした瞬間、ジエルは立ち上がった。服を着替え部屋を飛び出す。寮の廊下を走り抜け、そのままアモリス支部の建物内へ向かう。朝早いこともあり、支部内はまだ人が少ない。職員たちが準備を始めている中を駆け抜け、ジエルは何人もの職員へ声を掛けた。
「天記さん見なかったか!」
「さっき資料室の方へ行ってましたよ」
その言葉を聞くなり、ジエルは方向を変える。廊下を曲がる。階段を駆け上がる。
そして――
「あっ」
廊下の向こうから、一人の男性が歩いてきた。穏やかな表情。優しい目。
「天記さん!」
ジエルの声に、その人物は足を止める。
「あれ?」
「どうしたの、ジエル君」
天記は不思議そうに首を傾げた。朝から息を切らしているジエルを見て、何かあったのだと察したらしい。しかし、ジエルは息を整えることもせず、そのまま天記の前まで歩いていく。真っ直ぐ。逃がさないというように。そして、天記の目を見つめた。
「聞きたいことがある……」
低い声だった。その真剣さに、天記の表情も少し引き締まる。
「何かな」
数秒の沈黙。廊下には二人しかいない。ジエルはゆっくりと口を開いた。
「俺の記憶を消したんだろ?」
その一言が響いた瞬間だった。天記の表情が凍り付く。目が大きく見開かれる。その反応は一瞬だった。すぐにいつもの穏やかな表情へ戻そうとする。
「……何を言ってるんだ、ジエル君」
少しだけ笑ってみせる。
「僕が君の記憶を消すなんて……」
否定の言葉。しかし、その声にはわずかな震えが混じっていた。ジエルは見逃さない。
その瞬間。ふらり、と。天記の身体が大きく揺れた。
「っ……」
急に力が抜けたように膝が折れる。
「天記さん!」
ジエルは反射的に前へ出た。倒れかけた天記の身体を両腕で支える。
天記の顔色は青白く、額には脂汗が浮かんでいる。
呼吸も乱れていた。
「大丈夫か!」
ジエルが声を掛けても、天記はすぐには返事をしない。ただ苦しそうに胸を押さえ、小さく息を吐いている。ジエルは倒れかけた天記の身体をしっかりと支えた。
「天記さん!」
呼び掛けても返事は弱々しい。天記は苦しそうに呼吸を整えながら、小さく首を振るだけだった。
「……大丈夫」
その声には、いつもの余裕はなかった。ジエルは迷わなかった。
「医療室だ」
そう呟くと、天記の腕を肩へ回し、そのまま歩き始める。廊下を急ぎ足で進んでいると、向こうから見慣れた二人が歩いてきた。
「ジエル?」
エデンだった。隣には亜爆もいる。二人は天記の様子を見るなり表情を変えた。
「どうしたんですか!」
亜爆が駆け寄る。
「急に倒れたんだ!」
ジエルは息を切らしながら答えた。
「とにかく医療室に行く!」
「分かりました」
亜爆はすぐに天記の反対側へ回り、身体を支える。エデンも前へ走り、医療室へ連絡を入れながら道を開けていく。三人は急いで病室へ向かった。天記は静かにベッドへ寝かされる。白い天井を見つめながら、小さく息を吐いた。部屋にはエデン、亜爆、ジエルの三人が残る。誰も口を開かない。重苦しい沈黙が流れる。
やがて、ジエルがゆっくりとベッドへ近付いた。その表情は真剣だった。
「天記さん……」
静かな声だった。
「本当のことを言ってくれ」
天記は少しだけ目を閉じる。そして、いつものように穏やかに笑った。
「大丈夫だよ」
「これは任務の疲れが出てるだけだから」
「少し休めば――」
「違うだろ!」
ジエルの声が病室へ響いた。その勢いに、エデンも亜爆も息を呑む。ジエルはベッドの横で拳を握り締める。震えるほど力が入っていた。
「能力をずっと使ってるからだろ!」
その言葉に。天記の笑顔が止まる。病室の空気が一瞬で凍り付いた。エデンは驚いた表情でジエルを見る。
「能力……?」
亜爆も天記へ視線を向ける。天記は何も答えない。ただ静かに天井を見つめていた。ジエルは続ける。
「俺の記憶がおかしい」
「思い出せそうで思い出せない」
「忘れたんじゃねぇ」
「思い出せないようにされてる」
一歩、ベッドへ近付く。
「記憶を操作出来る能力を持ってるのは天記さんだけだ」
「でも……」
天記はゆっくりと目を閉じた。何も言わない。その沈黙が、かえって答えのようにも思えた。エデンは二人を交互に見つめる。何が起きているのか、まだ理解できない。しかし一つだけ分かることがあった。天記は何かを隠している。
そして、その隠し事はジエルの記憶と深く関わっている。病室には、誰も言葉を発しないまま重苦しい沈黙だけが流れていた。
病室には、張り詰めた空気だけが流れていた。
天記はベッドに横たわったまま、静かに呼吸を整えている。顔色は悪い。
それでも、エデンたちへ向ける表情はいつもと変わらない穏やかなものだった。
「ジエル君」
天記は小さく笑う。
「考えすぎだよ」
「僕は本当に――」
「違う!」
ジエルが声を張り上げる。その声には怒りではなく、苦しさが滲んでいた。
「頼む……」
一歩、また一歩とベッドへ近付く。握り締めていた拳は、いつの間にか力なく震えていた。
「頼む……天記さん……」
その声は、さっきよりもずっと小さい。
「本当のことを言ってくれ……」
病室は静まり返る。天記は何も答えない。ジエルは俯き、震える声で続けた。
「天記さんのことだ……」
「俺……」
そこで言葉が詰まる。何度も唇を開こうとする。だが、うまく声にならない。しばらくして、ようやく絞り出すように言った。
「俺……信じたいんだよ」
その一言に、病室の空気がわずかに揺れた。エデンも亜爆も黙ってジエルを見つめる。ジエルは顔を上げた。その目には怒りはなかった。あるのは、悲しみだけだった。
「もし、本当に記憶を消したなら……きっと理由があったんだろ?」
「天記さんは、そんな理由もなく人を傷つける人じゃねぇ」
「だから……だから隠さないでくれ」
「俺は、本当のことが知りたい」
その言葉は責めるためではない。信じているからこそ、真実を話してほしい。そんな願いだった。天記は静かに目を閉じる。ジエルの言葉が胸に突き刺さる。
「……」
沈黙が続く。誰も急かさない。エデンも亜爆も、ただ天記の返事を待っていた。
やがて天記は、小さく息を吐く。
その穏やかな表情には、今まで見せたことのない苦しさが浮かんでいた。まるで、長い間抱え続けてきた罪を前にした人間のように。




